COLUMN02
2001/04/07執筆
韓日・日韓公共哲学共同学術会議「21世紀の文明と平和」に対するコメント
2001年12月19日〜20日に大韓民国・梨花女子大学校にて「21世紀の文明と平和」と題された韓日・日韓公共哲学共同学術会議が開催された。主催は韓国政治思想学会と日本将来世代総合研究所。
はじめに
私は東京大学から学部学生として参加させていただきましたが,会議の中では非常に活発な議論が展開され,会議そのものは概ね成功だったと考えています。今回の会議は「公共哲学(パブリック・フィロソフィー)」という分野で開催されましたが,実際に会議に参加してみると,むしろ「文明と平和」という題目の方が会議全体を表すのに適しているように感じました。韓国・日本双方の先生方の発表内容は,当然既存の形而上的な哲学概念に留まらないものであり,多様な分析枠組みを通じて日韓の公共空間に対して分析を行ったものでした。この会議での発表,および活発な討論を通じ,韓日の社会・文化・政治・経済などの公共空間や,その背後に潜む問題や要因に関しての相互理解・相互認識が深まったはずです。またここから,現在生起している諸問題に対し,解決の糸口を見つける手がかりを得ることも期待できるように思います。
以下,会議での発表それぞれに対する私なりのコメントを述べさせていただきます。日本側の参加者ということで,特に韓国側の発表に重点を置きました。その中で,私が特に関心を持っている分野に関連しては,それに加えて私なりの議論の拡張や新たな論点の提示を試みています。
本文
まず,韓国側の発表から振り返ることにする。呉文煥(オ・ムンファン)博士の「解寃相生」に関する発表は,19世紀末の東学革命の失敗を背景として登場した甑山の思想を踏まえ,これを現代の思想状況と対照させて批判的考察を行っている。将来的な展望はやや茫漠としているものの,韓国における思想的遍歴を分析し,これを現代に生かそうとする議論は,この会議における最初の議論としてはふさわしいものであったと言える。やや本筋から離れるが,韓国文化の原型を「解く文化」であると分析する李御寧(イ・オニョン)の議論を再考し,「降臨文化」および「昇天文化」と捉え直す議論を個人的には興味深く拝聴した。国(民族)の文化特性を語るとき,一つの視点からしか捉えられないことが間々あるが,多様な視点から捉えることは極めて重要だからである。
続いての白昇鉉(パク・スンヒュン)教授の議論は「公共哲学」を考える上ではまさに忘れることのできない話題であった。植民地時代の公式的(official)な国家権力に対する批判と抵抗意識の容認が,その後の独裁政治・権威主義政治に対する運動に引き継がれていったとする議論は,非常に理解しやすい論の展開であった。しかしながら,その後の民主化の実現に伴い,社会運動の性格が市民運動に転換したとする点では,少々追求の不十分な点が残る。外部から観察する限りでは,制度面や政策面で民主化が進むことによって,社会運動は市民運動の性質を徐々に帯びた,という議論は極めて筋が通っているが,内部,換言すれば市民側から観察した場合,市民の社会運動に対する意識や,市民団体・コミュニティに関する意識の変化に関しては,少々踏み込みが足りないように感じる。白教授によれば,韓国はかつては儒教文化圏に属し,「人間の政治的な生活が帰属し得る対象が国家または家族の二つの領域にだけ区分されて存在した」わけであるが,このような環境に置かれていた個人が,いかにして市民(citizen)としての意識を抱くに至ったのか,コミュニティなるものに自らが参加して(包摂されて)いることに気づくに至ったのか,意識の変化についての考察を行うことによって,韓国における「公共性」の姿はより明確になるように思われる。「公共性(publicness)」は物理的に存在しているわけでも,制度的に存在しているわけでもなく,各自の意識の中に存在し,その意識の共有によって成立するものだと考えられるからである。
また,市民運動に関して,会議以降,興味深い事件が生じたのでこれに関しても触れておきたい。いわゆる「歴史歪曲教科書問題」に関するインターネットを使った「示威」行為である【註1】。
この事件を分析する枠組みは多数あるが,興味深い点は,まず,韓国では非常に一般的となっている「PC房【註2】」がこの「示威」の「成功」に大きな意義を果たし,また,それによって名望家中心でなく,多くの参加した一般市民が等しく行動を起こしたという点。そして,韓国メディアが,この「示威」を「サイバーテロ」という言葉を用いて語らず,「ネティズン」「市民の力」という言説で報道した点である。
第一点に関しては,メディアの普及における人々の行動様式や思想・思考の表現形態の変化について考えるよい材料である。インターネットがこれほど普及する以前であれば,人々は日本大使館の前で,もしくはタプコル公園などで,抗議集会を開くしか抗議手段がなかったはずだ。しかし,今回は一般の人々が直接日本を攻撃することが可能であった。しかも,プログラムを使えば,非常に少ない労力で大きな効用を挙げることができたのである。また,次のような問題もある。見掛け上は一般の人々が一丸となって市民運動に参加したように見えるが,一人一人の意識はどうだったであろうか。果たして「市民意識」は生まれたであろうか。個人が集団を志向し,またコミュニティ形成を意識して行動した結果,市民運動が成立したのではなく,個人が行動を起こした結果として市民運動「らしい」ものが成立した,という可能性はないだろうか。この問題を解くには,今後,サイバースペースの中でのコミュニティや連体なるものの構成様式を考える必要があるだろう。さらに言えば,行動様式は新しいものであったが,いまだ高段政治(high politics)の領域に関する問題に対しての活動が盛んであることを印象づけた事件でもあった。
また,第二点に関しても,先ほど述べたことと重なるが,「ネティズン」という存在を,韓国(メディア)がどのように捉えているのかを明らかにする必要がある。定義や存在には未だゆれがあるものの,大雑把に言えば,ネティズンとは,ネットワーク(サイバースペース)上の市民といった意味あいの言葉である【註3】。どの様な要件を満たす存在がネティズンか,そしてどのような役割を果たす存在がネティズンか,本当にネティズンは存在するのか,といった議論がある中で,韓国でのネティズン観といったものがあるならば,それはどのようなものなのかを知ることで,逆に現実世界での市民観を紐解くことができるはずである。現実社会における市民観というバックグラウンドがあり,その上に新たに登場してきたネティズン概念があるはずだからだ。そして各国のネティズン概念に差異があるならば,本来的に国境のないサイバースペースにおいてその差異が,法的に,倫理的に,社会的にどのように処理されなければならないか。議論を進めなければならない点である。
金周晟(キム・ジュソン)教授の言語を通じた文明の展開に関する発表も,言語的,社会的なさまざまな論点を提供していただけたという点で,興味深いものであった。しかしながら,少しばかり異論を述べたい部分や,補足しておきたい部分がある。表音文字と表意文字に関して述べた部分で「表意文字が非効率である」「漢字は現代文明に適していない」との主張に対してである。
まず,表音文字と表意文字の違いに関してである。金教授は,アルファベット言語やハングルを表音文字の代表格のように述べていたが,実際には完全な表音文字とは言い切れない。例えば英語の場合は「黙字(実際には発音しない文字)」が存在するし,韓国語も連音化や流音化,鼻音化が存在するため,単語を耳から聞いて文字を書き留めるためには単語そのものを記憶しておくことが必要であるからである。また,書かれた文字を目で見て認識する際も,実際には文字を音に変換して理解していることは少ないであろう。表音文字であっても,いわゆる「字面」を視覚的に判断して理解していることがほとんどである。
また,「速度時代の現代文明」には複雑な表意文字(漢字)が適していないとの指摘があったが,その根拠がやや不明瞭である。世界でも複雑な文字体系を取っている日本を例にすると,実はかなり昔から日本でも「片仮名」だけを表記として用いようという動きがあった。草の根的な動きについては分からないが,少なくとも1920年には「仮名文字協会」が創設され,それが「財団法人カナモジカイ」に姿を変えて現在まで続いている。それより前には,福澤諭吉も「文字乃数」と題された論で漢字の弊害についての論を発表しているくらいなのだ。
当時の主張を見ると,漢字の弊害として教育の非効率と事務処理の非効率の改善が謳われており,おそらく「速度時代」が指しているものはこれら,特に後者だと思われる【註4】。しかし,技術の発展とともに,漢字の持つこの問題点はなくなってきているといえる。確かにタイプライター全盛時代にはこのような議論は活気を帯びていたが,情報処理技術の普及(変換エンジンの性能向上や入力形式の発達)によって下火になっているといえよう。もちろん,文字コードの問題など新たな問題も生起しており,漢字に関する問題はすべて解消されたわけではないが,「速度時代」においても十分漢字は生き残ってゆけるはずである。
さらにいえば,「文明が発展すればするほど」「象形文字や表意文字から表音文字に変化」したという事実は認めるにしろ,最近では再び「象形文字や表意文字」的なものへの振り戻しが起こってはいないだろうか。最近のメディアの趨勢として,それまで文字だけで表現されていたメディアに,画像や音声が付加されるという現象が多く見られはしないだろうか。テキストの世界であったインターネットに画像や音声が付加されたりといった具合にである。文明が発達するにつれて増加する情報量に対応するには,画像などの「直感的」なツールを使うことが有効である。場合によってはいくつもの情報を同時に受け取ることもできるだろう。
漢字に関しては,確かに日本には漢字語が多い。しかしながらある程度まで日本は漢字を馴致させたということができると思う。日本の漢字語には中国にはない漢字語(日本で独自に作られた漢字語)も多く,またその逆に中国にはあっても日本にはない漢字語も多いではないか。韓国の場合,たしかに一見したところは固有のハングル文字のみを使っているように見えるが,実際は70%以上が漢字由来の言葉だ。もちろん,日本の例と同じように韓国だけにしか存在しない漢字語もあるだろうから,韓国もある程度まで漢字を馴致させたということができる。しかし,韓国の場合は,実際の言語体系は中国から入ってきた漢字語に大きく依拠しながらも,表面はハングルで覆い隠しているのが現状ではないだろうか。別に私は日本語を擁護するつもりはないが,日本語の場合は外来語は片仮名で表記するなど,固有語と漢字語,そして外来語を区別して認識できるような文字体系を持っている。韓国の場合,単にハングルで表記するだけで外来語の馴致を成し遂げたと言えるのだろうか。外来語を覆い隠すのではなく,むしろ,外来語を外来語として意識して取り入れるほうが,逆に固有語を尊重する姿勢にならないだろうか。
日本側の発表に関して簡単に振り返ると,黒住真教授の「和」に関する議論は,まず日本史的な流れの中で語ったのち,現代的意味を考えるものであった。船曳建夫先生の「国民文化と市民文化」に関する議論も,近代対伝統というねじれの構図を超える新しい現象について言及したものであった。鎌田東二教授の「むすび」概念に関する発表も日本古来の「むすび」概念の現代的応用を志向したものであった。このようにすべての議論が「公共性」というテーマで大きく括ることができるもので,内容も多くの分野に応用可能なものであった。日本史的な背景を踏まえる議論も多く,韓日・日韓の思想や思考様式の理解に大いに寄与したものであったに違いない。
結び
まだ大学学部生でありながら,この会議に参加させていただきまして,韓国・日本の双方の多様な理論に触れられたことを非常に嬉しく思います。現在,交換留学生としてソウル大学へ留学中ですが,現地の学生と接していると韓国での学問における志向や,学生の社会に対する思考様式を直に感じることができ,興味深くもあります。
最後に,このような機会を設けていただきました将来世代国際財団のみなさま,そして諸先生方に深く感謝させて結ばせていただきます。
脚註
[ネティズン,日本歴史歪曲に対しサイバー示威]日本の歴史教科書の歪曲記述に抗議する韓国国内のネティズンが三十一日,日本の教科書検定機関である文部科学省と産経新聞などのインターネットホームページで大規模なサイバー示威を展開した。(中略)Pサイトの資料室に,一回のクリックで日本国内の関係団体六箇所のホームページに同時接続が可能な「三・三一濫罰(濫伐)」というプログラムがアップロードされていることも確認された。このプログラムを実行すると,コンピュータモニターに六箇所の関係団体のサイトが同時に表示される。「攻撃開始」のアイコンをクリックすると,二〜三秒間隔で継続してサイトに接続を試み,接続を試みた回数までも表示される。このプログラムには「濫罰(濫伐),今これ以上沈黙するなかれ,沈黙それは罪悪である」というコメントとともに,「二〇〇一年三月三十一日以降は実行されません」との文言が一緒に書かれていた。(後略)
(出典:朝鮮日報ホームページ(http://www.chosun.com/w21data/html/news/200103/200103310046.html),原文は韓国語・翻訳は坂崎。)【本文へ戻る】
【註2】インターネットカフェの比喩を用いて説明されることも多いが,日本でのそれのように洒落たイメージはあまりない。数は多く,ビルの一室など街中に点在しており,韓国のインターネット利用・普及に大きな貢献を果たしている。また,若者のネットワークゲームの利用の場ともなっている。【本文へ戻る】
【註3】ネティズン(netizen)という言葉はMichael Hauben, The Net And Netizens, 1993で初めて登場した。【本文へ戻る】
【註4】財団法人カナモジカイの基本的考え方は以下の通り(分かち書き,片仮名,読点は原文ママ)。
(前略)ワレワレノ 先祖タチハ, 漢字ヲ 通ジテ 大陸ノ 文化ヲ トリイレル コトニ ツトメタ. ソノ イサオシワ 大キイ. マタ, ソノ コト カラ 漢字ヲ タカク 評価スル ヨウニ ナッタノモ シゼンノ ナリユキデ アル. シカシ 今日ノ 時代ニ, マシテ 将来モ マタ オナジ カンガエニ トラワレテ 日本語 ソノモノガ ソコナワレテ イル コトヲ カエリミナイ ヨウ デハ トテモ リッパナ 民族トシテノ 結ビツキヲ ノゾムコトガ デキナイ. タダニ 精神 ダケノ 問題デハ ナイ. 漢字ノ タメニ 日本ノ 教育ガ ドンナニ 大キナ ムダヲ シテ イルカ, マタ 国民ノ 知的水準ヲ タカメル ノニ 漢字ガ ドンナニ サマタゲニ ナッテ イルカ ハカリ シレナイ モノガ アル.
サラニ, 能率ノ 方面ノ コトヲ 指摘シナケレバ ナラナイ. 日本ノ 事務ノ 非能率ブリハ マサニ 前世紀的デ アル. ソノ 欠点ヲ イワユル 人海戦術ニ ヨッテ オギナッテ イル ト イウ ノガ 実状デ アル.
コレラノ 不合理ヲ ナク スル タメ ニハ, 漢字ヲ 国民日常ノ 生活ノ ナカ カラ 引退サセナケレバ ナラナイ.(後略)
(出典:カナモジカイ,1971,『カナモジ論』,マエガキより(「富士通オアシスホームページ」より孫引き))【本文へ戻る】
参考文献
●公文俊平編,1996,『ネティズンの時代』,NTT出版
●桂英史,1996,『メディア論的思考』,青弓社
●NTT出版,『InterCommunication』,第2巻第1号(No.3,通巻4号,1993年冬号)
●───,───,第4巻第3号(No.13,通巻14号,1995年夏号)
●───,───,第8巻第1号(No.27,通巻28号,1998年冬号)
●───,───,第8巻第4号(No.30,通巻31号,1999年秋号)
●───,───,第9巻第1号(No.31,通巻32号,2000年冬号)
●朝鮮日報ホームページ(http://www.chosun.com)
●富士通オアシスホームページ(http://www.fujitsu.co.jp/people/kanda)
●カナモジカイホームページ(http://www.netlaputa.ne.jp/~wakabaya)