REPORT04
1999年度夏学期(2年次)
現代教育論
学ぶ意欲を育てる学校教育
1 はじめに
「学ぶ意欲を育てる学校教育」というテーマでレポートが求められるということは,逆に言えば「現在の学校教育は学ぶ意欲を育てていない」ということを表している。
しかし,「東京大学の学生のような人間は,学ぶ意欲を育てられてきたからこそ,今後学問を続けるのに必要な素養──探求心,換言すれば学ぶ意欲──の有無を判断する選別過程(入学試験)をパスしたのだ」とも考えたくなる。確かに,東京大学の多くの学生にとって,初等教育や中等教育を通じて「学ぶ意欲が沸かない」ということを意識することはなかったであろう。しかし,これといって内発的な「学ぶ意欲」を感じた学生も多くはないはずである。彼らがそれまで持っていたまたは育てられてきた,つまり,現在の学校教育で育てられているのは外発的な「学ぶ意欲」ではないだろうか。
大学で学生に求められているのは「学ぶ意欲」であるといってよいだろう。しかし,すでに社会問題にもなっているように「大学生は学ばない」。これは,彼らが学校で育てられてきた「学ぶ意欲」は,「中学・高校・大学入試に必要だから」という目的のために作り出されてきた,一種のまやかしたる外発的な意欲であったからなのである。学校教育は,大学受験予備校生が必死に勉強するのと同じ程度の「学ぶ意欲」しか実現できていないのである。
2 現在の学校教育の二つの問題点
もちろん,現在の学校教育にも良い点は数々ある。前節では外発的意欲をまるで悪者のように述べているが,外発的意欲がまったく悪いというわけではない。外発的意欲は子どもの視野を広げるのに効果がある。このことによる「広く浅い」知識の習得や新たな発見も必要である。また,計画的なカリキュラムが組まれていることも,(個人に適応しにくいという弊害はあるにせよ)子どもの段階的な教育に寄与していると言えるであろう。しかし,内発的意欲が人間が学ぼうとする行為を引き起こす最大の要因であることを考慮すると,現在の学校教育には改善されるべき大きな問題がある。
その内発的な学ぶ意欲(以下単に学ぶ意欲と記述)は誰もが持っているものといってよい。講義の中でも触れられたように,例えば乳児や幼児の行動を見れば分かる通りである。ということは,現在の学校教育は子どもの学ぶ意欲を育てないばかりか,萎縮させている,また,学校がそれを発揮できないような空間となっているのである。
学校教育がこのような状況を生みだした原因として,大きく分けて以下の2つの要因が考えられる。なお,この2つの要因は,学校教育の手段面・制度面に触れるか,より本質に迫った内容面に触れるかの違いによって分けたものである。どちらの手法を採るかは,学校教育の役割やありかたに関わるものでもあるが,現在はそのいずれもが必要であると私は判断した。
(1)学校教育における現在の指導法,また,教育行政のあり方が子どもの学ぶ意欲を引き出しにくい,または育てにくいものとなっている。
(2) 学校教育で教えられる内容自体が,子どもの学ぶ意欲を引き出しにくい,または育てにくいものとなっている。
次節では,各々に関して問題点や解決策を論じてみたい。
3 問題点と改善法
学ぶ意欲は何も学校という空間においてのみ発揮されるわけではない。むしろ,普段の生活が行われる日常空間の方が発揮されている。また,そこでは学ぶ意欲に限らず,様々な意欲が働いている。私は,学校における学ぶ意欲は日常空間における意欲と深い関係があると考える。
現在,学校は子どもが一日のうちの多くの時間を過ごす空間であり,社会の一員として組み込まれているにも関わらず,日常とは空間,制度双方の面で極めて分断された存在となっている。例えば,全員が同じ時刻に同じ事柄を定められた時間以内にこなすなどということは,日常生活ではまずありえない。学校が日常とこれほどまでに分断されているからこそ,本来子どもが持っており,日常生活の中では存分に発揮されている意欲が,学校の中ではほとんど発揮されない,そして発揮できないのである。
3.1 指導法と教育行政
まず,学校教育の内容以外の手段面・制度面の問題点,改善法について考えてみたい。
日常空間と分断しており,子どもの学ぶ意欲を萎縮させ,育つのを阻んでいる要因のうち,指導法に関するものとしては,
(1) これから自分がなすべき事柄が,自分で決定できない。
(2) 全員が「生徒」としてまとまって捉えられがちである。
(3) 自分に合ったペースではなく,所与とされたペースで事柄が進んでゆく。
(4) 努力に対する満足感,失敗に対する悔しさが得にくい。
(5) 教科書中心であり,日常生活とのリンクが感じとりにくく,興味が沸きにくい。
が挙げられる。また,日常空間との分断とはあまり関係がないが,制度面で重要な問題として,
(6) 公立学校にも独自の指導方針がありながらも,学区制によって進学学校が所与とされてしまう。
ということがある。
(1)・(2)・(3)は,一斉指導(マスプロ指導)によって生ずる問題であるといえる。(1)では,自分は数学をやりたいのに国語をやらされる,といったように子どもが学ぶ意欲を無視される場合も多く,「教師の都合のいいように学ぶ意欲を見せてほしい」という無理な要求がその背後にはある。(2)では,「勉強しているのに自分のことを気にかけてくれない」,「自分は勉強しているのに,おこられた」などのマイナスの感情や,「自分がやってもやらなくても同じだ」という無気力を生むことになる。(3)では,意欲があってもそれを途中でむりやり打ち切ってしまう状況や,意欲の有無に関係なのない単なる作業の速さが評価される体質,ひいては子ども自身が本当に自分に学ぶ意欲があるのかどうかわからなくなってしまう状況を導くことになる。結局,(1)・(2)・(3)はいずれも子どもの意欲をそぐ一方なのである。また,(4)は,本来内発的に生じるべきものが外発的なものにすりかえられることによって生じる問題である。例えば,努力して問題を間違った場合,その努力は認められずただ×がつけられるのみである。これでは,努力に対する満足感は得られない。また,×をつけられたことによって,間違ったことに対する悔しさ,どうしてだろうという疑問を内発的に感じる前に,間違ったという事実だけが外発的に押しつけられるのである。満足感や悔しさは人間の行動意欲を生む重要な要因である。これもまた,せっかくの子どもの意欲を伸ばす機会を学校がみすみす見過ごしている例である。(5)も機会を学校が十分活用できないでいる例である。現在の学校には,学校が日常から分断されているがために生じる問題として,「学校という閉ざされた空間の中で行われる『勉強』に意欲を見出だせなければ一歩も進めない(純粋に学校内部に関する意欲しか意味がない)」というものがある。ここでは,学校を社会の一部と捉え,子どもの日常や社会に対する意欲がうまく導けるような指導を行うことが重要である。また,このことで子ども自身が,自分には学ぶ意欲があったことに気づくこともできるであろう。すなわち,教科書に固執するのではなく,日常との関連性を重視する教育や,日常の延長としての学校での勉強という捉え方が必要となってくるのである。(6)はこれまで述べてきたことと少々旗色が異なるが,自分(または自分の子ども)がうまくやっていけそうな学校を自由に選択できないことも,意欲を発揮させ,育てることにマイナスの要因として働いている。今までも例として述べてきたように,外部の環境は意欲に非常に大きな影響を与えている。子どもは均一なわけではなく,子どもが異なれば適切な環境も異なってくることを考慮に入れた柔軟さが求められる。また,進学学校が所与とされることによって,不公平感も生じかねない。
これらを解決する方法の例としては,一人一人が自分にあった学習をできる時間をカリキュラム中に設ける,教科書に過度に頼らず,教師によって日常と関連づけられた授業(例えば,社会の交通システムの単元では実際に子どもたちが利用している交通システムを教材とした授業)を展開することが有効である。
3.2 学習内容
より本質的な問題として,学校教育で子どもに教えられる内容上の問題がある。これは,学校とは何なのか,という問題に繋がるので乱暴な議論はできないが,現在の教育内容が子どもの意欲を育てられないひとつの要因であることは否定できないと思う。教育内容の原理として文化遺産の継承・発展,社会現実への対応,子どもの求め,という3つが挙げられるため[奈須,1997:111-112],社会に直接的に役に立たず,子どもが興味を示さない事柄は削除してもよいとは言えない。しかし,これまでの受験競争の材料とされるのが関の山である内容は,子どもの外発的な意欲を喚起することはあっても,内発的な意欲を喚起することはできまい。
現在の問題点としては,
(1)学習内容が,「学校」という特殊環境で生存していくための力とはなるが,社会や日常で生きていくための力を育むものではない。
(2)子どもたちを大きく包含するような学習内容である。
ということがあげられようか。
(1)に関してであるが,現在学校で重視されているのはやはり知識であるといえるであろう。これはペーパーテストが評価の中心であることとも関連している。しかし,社会や日常で必要とされるのはこれらの知識そのものではなく,これを分析し,統合し,判断することなのである(http://www.L-net.comを参考)。知識の勉強の場合は,その分野や内容によって意欲の沸く程度が異なって当然である。しかし,分析・統合・判断の勉強(訓練)に主眼を置く勉強(訓練)の場合は,そこで取り上げる内容は子どもが興味を持ち,意欲的に取り組めるものを選択してもいっこうに問題ないため,子どもの意欲を育て,生かすことができる。ここから得られる満足感,悔しさは極めて内発的なものとなりうる(もちろん,教師の手法に依るところも大きい)。現在の学校教育の場では,後者のような内容がまだまだ不足している。後者のような教育をより一層取り入れることで,学校と社会や日常を隔てている壁を乗り越えることも可能になり,子どもの意欲を育てることもできるのではないか。また,「主要」教科という考え方にも多少なりとも問題があるだろう。「主要」教科以外に抱いた意欲を,教師・生徒共に軽視する風潮を生む可能性が高いからである。(2)については,子どもの個性を生かし,学習教材や課題を子どもが自らの興味に応じて選択できる方式を採用することで,子どもたちの学ぶ意欲は育てられる。完全に自由に子どもに選ばせることができなくとも,いくつかの選択肢を与え,ここから選ばせることで,子どもは「自分自身が選択した」という意識を持つ。そしてこのことは意欲的に学ぶことにプラスに働くのである。
4 結び
先日,出身高校の国語の教師と話す機会があったので,教育問題について少々話をした。学校単位では,このレポートの3.1で触れたような改善努力に大変力を入れているが,特に高校の場合は大学入試という目の前の目標があるため大幅な変革は難しいと話していた。
未だに理想と現実の差は大きいと思う。しかし,学校教育の問題点が社会問題を引き起こしているような雰囲気も漂っている現在,限られた枠のなかではありながら最大限の改善努力をすることは,子どもの意欲のを育てるのに有効に働くはずである。
5 参考資料
●奈須正裕,1997,「4章 カリキュラム編成の原理をめぐって──内容論」,『学ぶこと教えること』:103-129,金子書房
●Seasoning ホームページ(http://www.mmic.co.jp/seasoning/)
●Masa's ホームページ(http://www.tcp-ip.or.jp/~mrym/)