REPORT07


1999年度冬学期(2年次)
社会意識論
貨幣と情報──ベンヤミン貨幣論

はじめに

 講義中にベンヤミンの貨幣論に基づいて扱われたのは,貨幣と娼婦,賭博,そして都市との相関であった。だが,私がこれらの事物に対する彼の言説を反芻しながら自分自身の住まう現代社会や現代都市を考えたとき,娼婦と賭博に代置されるものとして情報の存在が浮かんできた。貨幣と交換可能である,「一切のものへの夢」を含む,「即時にして無限の可能性」を与える,運命と戯れている,といった言説によって説明され,かつ現代社会で大きな地位を占めていると信奉されているもの,それは情報,その中でも電子メディア上を流れる情報ではないだろうか。

貨幣の情報化/情報の貨幣化

 貨幣は商品と交換され得る一般的等価物として,「価値という仮象に取り憑かれた欲望の世界」たる社会で,自らを主張・代表する形態(金属片や紙幣)を有して(実体として)通流している。換言すれば貨幣はそれ自身が価値を内包したものとして了解され,また,一般的等価物という特権的な地位を与えられているのである。(以下,このような貨幣の形態を「実体としての貨幣」と呼ぶ。)

 しかし現代の情報化・ネットワーク化を標榜するモードの中で,貨幣はその存在を変質させようとしている。これは,現代では貨幣が実体を持たずに移動することが多くなっていること,すなわち貨幣の情報化が進行し,貨幣が情報の世界に飲み込まれようとしていることに起因している。具体的に言えば,最近人々が受け入れつつあるオンライン取引やクレジットカード,インターネットバンキングの類である。これらを通じた貨幣の移動には通常実体としての貨幣は用いられない。数字情報,記号が移動するのみである。

 情報の側には,貨幣が情報の分野に内包されることを促す要因があるように思う。それは,最近とみに普及してきた,いわゆる電子メディア内を流れる情報の多様可能性であろう。これまでのメディアの場合,そこを通過する情報が他の形式に変換されることは困難であった。しかし,電子メディア上の情報はどんな情報であれ同じ形式(0/1コード)を用いて記述されるため,多様な表層を持つ事物を同じ位相で扱うことが可能であり,また,様々な形式で外部に表出することができるのである。そして,多様可能性を持つということは,換言すれば電子メディア上を流れる情報の対応度や柔軟性が高いということである。これはベンヤミンのいう「無限定な関係性」,「可能性を秘めた存在」たりうるのである。情報が貨幣的な性格を帯びている。

 ここで注意しておかなければならないのは,ここで議論の対象としている情報と,娼婦・賭博との間には相異があるということである。娼婦と賭博は貨幣と「交換」されうるのだが,ここでの情報とは貨幣の「代位」として存在している情報である。(もちろん,実際にも貨幣と交換される情報は存在するが。)

 そして一旦情報化された貨幣は,改めて実体化されることももちろんあるが,実体化されずに情報として通流することも可能である。そして実際そうなっている場合も多いのだ。

 貨幣は一種の記号であるが,その記号の特性を如実に表明した形態(金や大石が実体となることはあっても,薔薇やパン焼き窯が実体となることはなかった)が付随することによって,貨幣はその特権性を,人々の直感の助けを借りて社会に表明してきた。しかし,その実体が剥奪され,情報化された貨幣は,その特権性を表明できない状態にある。貨幣は一旦情報化されてしまうと,再び実体化されない限りにおいて情報と同じ位相で扱われるのである。

 このように貨幣が情報に内包されたとき,情報の特徴が,情報化された貨幣に付与される。その特徴とは大きく言うと,(1)薄根拠性,(2)非境界性,(3)増殖可能性である。これらに関して述べると,(1)薄根拠性が付与されると,貨幣が実体として存在している場合には知ることができた貨幣の信頼の根拠を知ることができなくなる(その性質に抗すべく信頼の根拠を探し出せるようにする研究が行われている。(2)非境界性が付与されると,空間的要因,時間的要因の両面によって制限されていた流通範囲が,その両制限をも超越することができるのである。また,この概念には先ほど述べた,情報の多様可能性も含んでいる。(3)増殖可能性は,人々にとっては感じにくい,しかし確固たる質量を持っている情報が,自己の内部から,また外部からの要因によって増殖(場合によっては減衰)することがあるということである。卑近な例としてはデマゴーグや「尾ひれ」の類が挙げられる。

具体的には

 これらの特徴が貨幣に付与されたとき,貨幣の特権性が弱まることになるのである。さらにそれまで貨幣の持っていたある種の共同幻想とも言える「貨幣に対する絶対的信用」が不可能になるのである。また,先ほど述べた増殖可能性を帯びることによって,貨幣の量が情報化された後に無節操に増減することが考えられる。いわゆる,ネットバブルもこのような性質を貨幣が帯びることで生じる現象であろう。また,貨幣に対する無条件の信用を電子メディア上の情報化された貨幣に与えてしまっていることが,クレジットカードに関する一連の事件の原因なのである。

 また,このことはネットバブルの場合に顕著に表れるのであろうが,実体を持った貨幣が情報化し,情報の世界で増殖・変質し,それが改めて実体化した場合,その間には許しがたい齟齬が生じる可能性は否定できない。

 貨幣と情報が100パーセント等値の関係であると言っているわけではない。表面から観察すれば,情報そのものが取引対象となっている(ように見える)が,貨幣が情報化すること,情報が貨幣化することは実際に生じているのであり,これらは互いに相関し合っている。言い換えれば互いに裏返しの関係にある。そしてその帰結として貨幣はその特権的地位を失っている。

 このような貨幣と情報の状況の中で都市と社会の展望はいかなるものになるだろうか。現在はすべての貨幣が情報化しているわけではないし,すべての情報が貨幣的な性格を帯びているわけではない。しかし,確実に生じているのは,独立優位の貨幣の消滅と,情報化である。柔軟性・対応度の高められた電子メディア上の情報の無限定な拡大に乗じた,貨幣の通流範囲の拡大。貨幣は今以上に人々の手の届き切れない空間に拡散する。そして,貨幣が現実には存在しない夢想の空間に置かれることも可能になる。

 現在の貨幣に基盤を置いた都市(それが共同体の幻想であったとしても)は,形を変えざるを得ない。今後,共同体の幻想は情報(しかも貨幣の性質を帯びた)へと向かうのだろうか。

参考

●内田隆三,1999,『生きられる社会』,新書館
●内山節,1997,新調選書『貨幣の思想史』,新潮社