REPORT08


1999年度冬学期(2年次)
相関社会科学基礎論1
サイバースペースの公共性

はじめに

 1995年頃から急速な普及を遂げたインターネットは,今では様々な可能性を秘めたメディアとして注目を集めている。音楽や映像などを純粋な情報として流通させたり,アート(芸術)の場として利用したりと新たな利用法が技術の進歩と共に試みられるようになっている。

 そして,インターネットをメディア,そしてネットワークとして捉えたとき,そこで想起される姿には社会の姿が重なる。

 1993年春に,ネティズン(Netizen)という語が誕生したのを代表として[公文,1996:10],インターネット上に繰り広げられる空間(以下,サイバースペース〈Cyber-Space〉と呼ぶ)を一種の社会として捉え,そこに新たな社会規範の形成を見ようという動きがある]。このサイバースペースをめぐる議論の一つの中心に,公共性の問題がある。この空間が公空間として機能するのかどうかという議論である。さらに,これに関連して,サイバー空間では市民社会的なコミュニティが成立しうるのかどうか,また,仮にコミュニティが成立した場合,実社会におけるコミュニティと比べてどのような特徴を持つのか,といった問題も浮上している。

 このレポートでは以上の2点に絞って,インターネットが生み出したサイバースペースについて簡単に整理し,述べたいと思う。

インターネット(サイバースペース)の特徴

 サイバースペースについて考える上で,それを生み出すインターネットの特徴について考えておく必要がある。これに関しては,[林,1999:98]の記述が大いに参考になる。

(1)片方向通信も双方向通信も自在にこなせる。
(2)パーソナル・メディアとしてもマス・メディアとしても使える。
(3)人対人,機械対機械,人対機械のいずれの通信もできる。
(4)データ信号も,音声,画像信号も同じに扱えるのでメディアとメッセージの結びつきが緩やか(ルース・カップリングになる)。
(5)お仕着せ情報を受信するだけではなく,誰でも情報の選択・加工・発信が自由にできる。
(6)メディア自体が,記録・複製機能を持っている。
(7)メディア自体が,検索可能なデータベースでもある。

 これらの記述にはサイバースペースを考える上で少々不適切な点も含まれている。(2)に関してだが,インターネットをパーソナル・メディアとして使うか,マス・メディアとして使うかは,個人の意図によるものだが,それが自らの意図に反した機能をすることがある(パーソナル・メディアとして用いていたものが,予期せずマス・メディア化することもある)ため,この記述を解釈する差異には注意を要する(なお,これに関しては公私問題に絡めて後述する)。また,(3)に関しては,外部から現象だけを観察すれば機械との通信に見えるが,この通信を担保しているのはその機械にデータや情報を入力したり,その機械をある意図の下に設計したり,管轄する人間の姿がであり,機械同士の通信という表現は表層的である。

 また,インターネットのネットワークとしての視点を重視すれば,匿名性,参加離脱の束縛の緩さが挙げられよう[樺山,1996:100]。匿名性に関しては異論もあるが[土屋,1999:127],公共性やコミュニティを考える上ではこの異論を受け入れるべきではないと考え,ここでは匿名性を一つの特徴として扱う【註1】 。参加離脱の束縛の緩さは,後に述べる樺山のサイバースペース上に対する市民の考え方と,先に述べた匿名性に関連している。匿名性があるからこそ,サイバースペースからの(サイバースペース上のコミュニティからの)離脱に際して,外部から,そして自身内部からの非難や軋轢を(生むことはあっても)受けることは少ない。また,インターネットを経由して用いられる具体的ツールもこの性質を担保している【註2】。電子メールや電子掲示板,ウェブなどのツールは,匿名を維持したまま利用が可能であり,また,時間的,そして空間的な拘束を受けることも少ない【註3】

公共性,そして公私問題

 以上のようなサイバースペースの特徴を踏まえた上で,そこにはどのような性質を帯びた空間が生成されるのか,公共性の観点から考えてみたい。

 果たしてサイバースペースは公共空間となり得るのか,また,そこでの市民権はどのような形態を採るのかについては様々な議論がある。

 コミュニティが何らかの根本的な関心事の共有によって互いに分けられているとすれば,個々のコミュニティを構成している諸個人は,こうした関心事を支えるための特別な責任を引き受けていることにより,サイバースペースでの市民とみなされている,とするのがDolanの考え方である。また,彼は権威,そしてこれに伴う規制や処罰の存在しない場では無秩序がはびこる,とも述べ[Dolan,1996:130],インターネット上のマナーであるネチケット(Netiquette)がサイバースペースでのコミュニティの成立や市民権の存在を裏付けるとする[Dolan,1996:134]。彼は実社会でのそれとかなり似た形態を持つ公空間として,サイバースペースを分析していると言えよう。

 しかし,Dolanの議論はサイバースペースの持つ特異な性質を大部分捨象した上で成立しているように思われる。ここでは権威や規制,処罰といったものの影響力の実社会との相異や,ネチケットの持つ拘束力の強さを考えねばならない。この点には先ほども述べた匿名性が大きく関与しており,匿名性の強い場では権威の個人に対する影響力が小さくなると考えられる。権威の支配や規制を真正面から受けとめることなく,匿名の仮面を通じてのみ働きかける。また,権威や規制という考えの元には,コミュニティを構成する個人が関心事を支えるための責任を持つ,という発想があるのだが,コミュニティ(らしきものとここでは言っておく)に参加しているように見える個人が,コミュニティというものを公空間として認識しているかどうかは大いに疑問である(後に樺山の議論を用いて触れる)。

 一方,樺山の議論は,サイバースペースの参加者は公私の区別を乗り越えるという表現を用い,サイバースペースには公共空間と私空間の障壁がないとするものである【註4】[樺山,1996:94-95]。態度,言語などの観点から見て,公共空間と私空間の区別を意識せず(意識できず)に既存の私空間の領域を飛越するのである。また彼は,これに加えて,実社会における市民社会が基盤としてきた個人のコンセプトの,サイバースペースにおける変容に着目する。公私の区別が消失したからには,市民たる用件である私的自治能力をサイバースペースでは問われず,サイバースペースへの接続手段とその技能を所有すればサイバースペースに参加できるのであって,私人としての要件を問われないというのだ。その結果,サイバースペースへの参加の権利は普遍化し,参加者は権利によって保護される身分ではなくなり,市民権が実質無意味となったとまで述べている。

 私空間と公共空間の区別がなくなったという樺山の意見には賛成できる。実際のサイバースペースの状況を見てみても,電子掲示板には私的な情報が溢れている。サイバースペースにおいてはそのインターフェイスがコンピュータのモニタに一元化されてしまうため,参加者としては私と公が同じ地平で語られているという感覚を持つ。私空間に接する場合も,公空間に接する場合も,同様の態度で接することができるのである。

 また,日本には西欧的公共概念がなかったが,サイバースペースの出現によって初めて公共概念が日本人の内部に出現したとの意見もある。その公共圏の希薄さが私領域の未分化を引き起こし,その結果が盗聴法などの成立であるとも述べている。彼はサイバースペースにおける特殊な形での公共圏の存在を主張している。国家や資本の介入は,公共圏としてのサイバースペースの公共圏たる性格を建て前に押し戻されてしまう結果を生んだと述べ【註5】,Manuel De Landaの資本主義の歴史自体が史上と反市場(独占や競争の否定)という二つの矛盾するファクターによって駆動されているという主張を踏まえる。その上で,情報資本主義段階の公共圏が持つ錯綜した性格として「公共圏が市場化すること,国家権力がこれに介入することはまったく別の理論的前提に立ちながら,じつは同じ一つのシステムを非線形な歴史において発展させているというわけである[上野,1996:69]」との議論を展開している[上野,1996:66-69]。

 以上の議論を勘案した上で,私は次のように考える。サイバースペースには既存の用語で語られるような公共空間は存在していない。すなわち,官と私の接触点として,私を包摂し,外部に存在する形での公共空間は存在していないのである。私空間を拡張していった結果として生み出される《公共空間》,公共空間に参加している,コミュニティに参加していると意識することのない《公共空間》や《コミュニティ》の存在は,私空間と公共空間の区別を乗り越えていると説明するよりもむしろ,私空間と私空間の接触点,私空間のペリフェリとして存在しているのではあるまいか。

 これには,サイバースペースにおける情報の発信と受信の形態と特徴が関係している。次の表を参照していただきたい([公文,1996:33]を参考に作成)。

 
サイバースペース以前の態度
サイバースペースでの態度
情報発信者
公を意識した積極的な姿勢が必要
私のみを意識した消極的な姿勢でも可能
情報受信者
受け身の態度が中心
興味と必要にかなった情報に積極的に接する態度が必要

 サイバースペース以前というのはダイレクトメールや放送などを含めた実社会を指していると考えていただきたい。サイバースペースの特徴として,私のみを意識した情報を,興味のある者が見ればよい,見たい者が見ればよい,といった消極的な姿勢で発信することが可能である。また,興味と必要にかなった情報に積極的に接する態度が必要であるということは,裏を返せば私的な興味にかなわない情報には接触しにくい(本人が接触する意欲を持たないことが原因でもあるし,接触しにくい構造をサイバースペースが持っていること原因である)。このように,サイバースペースの情報の発受信の構造(構図)そのものが私的な方向性を強調するものとなっているのである。そこで《公共空間》や《コミュニティ》が誕生したとしても,それは私的な態度の基づく情報の発受信がかみ合っただけであり,離脱の容易性や匿名性も私空間の拡張に加担し,これを公共空間と呼ぶことはできないのではないだろうか。

サイバースペースに広がる《コミュニティ》

 最後に,サイバースペースに広がる《コミュニティ》の姿を簡単に構想し,今後の課題を述べて終わりたい。

 先ほどから,実社会のコミュニティに必要不可欠である信用や信頼の手続きがサイバースペースでは行えないことから,コミュニティは公共空間には存在できないし,公共空間そのものの成立も困難であると述べてきた。

 また,サイバースペースの《コミュニティ》と実社会のコミュニティの二重性(併存関係)の構図も考える必要がある。実社会のコミュニティがサイバースペースでも《コミュニティ》(むしろ《 》なしのコミュニティと表記した方が適当か)を形成している場合や【註6】,サイバースペースでの匿名性が影響して,あるコミュニティの構成員が,お互い全く知らないままにサイバースペースでの別の《コミュニティ》の構成員になっている場合がある(図参照)。この二重性はコミュニティの構成や意味合いにどんな影響を与えているのかに関する議論が今後必要とされる。サイバースペースと実社会は(今のところ)併存しているのであり,サイバースペースのみを議論対象とするだけでは社会を語る上で不十分である。

おわりに

 かつてはSF的な響きを持っていたサイバースペースという言葉もすっかり定着した。それに伴って,サイバースペースを万能と考える超希望的な見方も影を潜めた。経済的,文化的視点から取り上げられることの多いサイバースペースであるが,社会的,政治的な影響を考えることを蔑ろにしてはならない。今は,冷静になってサイバースペースが実社会を含めた社会全体に対する影響を考えるべき時である。

 字数と時間の関係から,少々終わりが端折る形となってしまった。サイバースペースに関する議論には定説がないだけに,新たな発想や観点が出やすい,まだ柔らかな分野であるように思う。

脚註

【註1】「しかし,まぎれもない事実は …… 肉体的な存在を持つ個人への追跡可能性はますます強化され,また,望まれるようになるであろうということである。そのためには,しかるべく管理された一連番号とメーカー,ヴェンダーに依存しない相互理解のためのプロトコルが必要となる。このような技術がいったん実現されたならば …… それぞれの計算機は,例えばISP(インターネット・サーヴィス・プロバイダ)によって確認され,課金する対象があることを保証したうえで,この新しいコミュニケーション方式に参加することができる。このようななりゆきのどこに,匿名性の要素があるというのであろうか[土屋,1999:127]」との記述があるが,記述のような確認がなされたとしても,それは実社会との認証の仕方や手続きとは大きく異なる。確かに,実社会でもここで述べられている認証の手続きと似たものは存在する(IDカードに代表される)が,実社会で言うコミュニティの基盤となるためにはこのような認証手続きによる確認は無意味である。実社会で言うコミュニティは同様の関心事や目的を持った構成員によって形成されるのであり,このためには相互信頼とか相互信用といった手続きが必要であるのではないだろうか。仮に,サイバースペースが土屋の言うような形で確認が行われ,それによって匿名性がなくなったと判断するような空間であるならば,そこに成立するコミュニティは実社会でのコミュニティとは異質のもの(少なくとも異なった性質を持つもの)となると言わざるを得ない。この意味も,サイバースペースには一種の匿名性がある,という前提で話を進めることは必要である。ただし,技術などの進歩により,実社会と寸分違わぬ形での認証が可能になればこの限りではない。【本文へ戻る】

【註2】むしろ,このような匿名性を保持したまま利用できるツールしか生み出されないことが,サイバースペースそのものが本質的に匿名性という性質を帯びていることを実証しているのではないか。【本文へ戻る】

【註3】電子掲示板に関しては共時性が他のツールに比べて強調され,かつ必要とされるが,実社会のコミュニティで行われるそれとは異なり,発言内容がすべて記録として残り,その記録を閲覧することができるという点で,時間的束縛が少ないのである。【本文へ戻る】

【註4】日本人に関してのみ言えば,日本人には官と民の思想はあるが,公の存在を知らなかった,また,日本人は私小説に代表されるように,私を公の領域にまで拡大する特徴を持っている,という意見もあり,このことが私空間と公共空間の障壁を意識させない(意識できない)ことの基礎にあるとも言える。サイバースペースだからこそ特殊な状況を巻き起こしているわけではなく,そこで起こっている状況も実社会と実質は同じか,実社会に基礎を求めることができるのではないか,という観点はサイバースペースを考える上で重要なものである。【本文へ戻る】

【註5】「……単に批判することは安易にすぎるだろう。国家や資本の介入は,フィジカルに存在する公共圏においても歴史的に起こってきたことだからである[上野,1999:67]」【本文へ戻る】

【註6】インターネット上のサークルなどのホームページ上の電子掲示板などがこれにあたる。サイバースペースのコミュニティのかなりの部分がこの形態であると考えられる。【本文へ戻る】

参考文献

●公文俊平,1996,「ネティズンとネティズン革命」,『ネティズンの時代』,NTT出版:1-90
●樺山紘一,1996,「市民革命とネティズン革命」,───:92-111
●Michael Hauben,1996,「ネティズンの誕生」,───:112-124
●Daniel Dolan,1996,「電子的に仲介された共同体の有望な前途」,───:125-146
●桂英史,1996,「『端末市民』という思想」,『メディア論的思考』,青弓社:63-89
●───,1996,「連帯の深層」,───:39-62
●───,1996,「端末市民のゆくえ」,───:186-201
●上野俊哉,1999,「反復される『古い』問題」,『InterCommunication』,第8巻,第4号,NTT出版:66-73
●林紘一郎,1999,「『インターネット資本主義』と日本経済」,───:98-105
●青山友紀+武邑光裕,1999,「[対談]新たな文化・社会の情報基盤としての次世代インターネット」,───:106-121
●土屋俊,1999,「インターネットに『次世代』はない」,───:122-131
●吉田純,1998,「情報ネットワーク社会における規範形成─『電子民主主義』概念を中心に─」,『第3回日本社会情報学会大会報告(ウェブ上文章資料 http://www.socio.kyoto-u.ac.jp/~jun/jsis98.html 註:現在はもう存在しないページです。)』
●その他,様々なウェブページも思索を深めるにあたって利用。