REPORT09


1999年度冬学期(2年次)
社会経済学
現代市場主義批判と2025年ビジョン

はじめに

 このレポートでは,講義や著書中で述べられたセーフティネット概念に基づく2025年の社会ビジョン(提言および希望的観測)を述べることにする。が,その前に,経済学を少々は齧ったことのある(文二ですから)学生として,敢えて経済学部に進学せず教養学部に進学することにした理由という意味も込め,少々現代経済学(市場理論)に対する批判を述べたいと思う。

現代経済学と政策決定者に対して

 社会科学,自然科学の別なく,科学とは現実や現象を客観的に捉え,そこに理論的考察や分析を加え,法則的事実を導き,これをさらに現実や現象に応用するものである。しかし現代経済学について考えてみると,新古典派経済学者の主張にしても,ケインズ主義経済学者,さらにこれらの理論に基づく政府にしても,社会科学のあるべき姿から乖離している。現代経済学の理論では説明のできない現象が現実社会で生起しているにもかかわらず,その現象を客観的態度で捉えず(例外として扱い),かつ自己が妄信する理論に従った政策や提言を行う姿は科学とはほど遠い。誠心な物理学者や社会学者は,既存の理論にそぐわない現象を解釈するためには,新たな理論を以て行おうとするが,経済学者だけは既存の理論に固執するのである。

 さらに,現代経済学が隘路に陥っている現状は,それぞれの学問が固有に持つ現実や現象を捉える枠組みにも由来している。(新古典派)経済学の場合,人間を完全な合理人として社会的現実や社会的現象を捉える,という認識の枠組み自体が致命的な欠陥を持っているのだ。純粋な学問としてのみ経済学が存在しているならば(現実的な)問題はない(経済学から派生した金融工学の隆盛がこのような経済学の哀しい一面を象徴しているようにも思う)。問題なのは,政治がその致命的な欠陥を持った理論に大いに依拠して政策決定を行っている点である。政治は,人,地域,国,世界を動かす機能を果たし,社会主体の行動や人としての身の処方に大きな影響を与えている(むしろそれが政治の役割である)にも関わらず,経済学を無批判に採用することによって,政治の最も重要な役割を機能不全か,的外れなものにしているのである。

 この現状を改善するには,経済学そのものを既存の理論や現実社会認識の枠組みから解放させるか,もしくは政策決定を現代経済学に依拠しないものにさせる必要がある。無論,政策決定は経済にも大きな影響を与える(現状を見る限りでは第一義的に経済に影響を与えている)ため,経済学的視座を政治に取り込まないことは不可能である。そこで必然的に経済学そのものの変革が必要となる。経済成長や経済発展,市場理論や為替に関する理論が既存の理論に上積みされる形で次々と発表されているが,ミクロ的な視野,特に理論の基礎に置かれた個人をはじめとする経済主体の性質を捉えなおす必要がある。そして,万一,それは経済学ではない,経済学は経済主体を単純化して理論を構築する学問なのだ,という批判が出るならば,経済学が政治に直接影響を与えるべきではないし,政府も経済学者の言うことを割り引いて政策決定を行うべきである。さらには既存の経済学とは異なる新たな学問分野の創設や学問間の融合を図り,その結果に政府は依拠するべきではないか。伝統や実績,信頼という名の悪習やモダニズム的思想に拘泥することは,困難を招く。

市場理論・完全市場経済について述べると

 折角,経済学に対する批判的感想を述べたので今度は市場理論と市場至上主義に対する批判を若干述べたいと思う。

 著書では,市場では取り引きしきれない,むしろ,市場にそぐわない要素が市場で無理に取引されていることを挙げて市場の限界が述べられているが,まだ他にも市場の限界と呼べる現象が生起しているように思われる。

 第一に,市場は自己抑制作用を持たないのではないか,という点である。デフレ・スパイラルの例が著書中では挙げられていたが,デフレ・スパイラルに限らず,すべてを市場に依存する社会ではモードを抑制することは不可能だ。現在,アメリカは好景気に沸いているが,ここでも市場の作用だけではインフレ懸念を払拭することはできていない。当初は有効需要に根拠を持った好況であったかもしれないが,市場に対する投機が投機を呼んだ結果,現在のアメリカ・バブルがあり,一旦市場がバブル化するとそのバブルを市場自らの機能では抑制できないのである。すべてを市場に依存しているわけではない現在においても,バブルが収束するということと,バブルが崩壊するということは同義である。市場自身は市場のモードに水を差すような働きかけはできないのである。以上のような状況の下では,短期的な安定(と呼ぶよりもむしろ,バブル期の短期的な盛り上がり)は存在しても,長期的な安定や見通しを持つことは不可能である。

 第二に,需要の質の区別不能性である。市場に投じられた需要(買い注文)が有効需要に裏付けられ,かつ,生活や活動に必要なものなのか,それともヘッジファンドなどによる投機によるものなのかを知る術は市場は持たない。穀物市場などの現状を見る限りでは,投機によって市場に出される買い注文の規模は,需要に裏付けられた需要の規模をはるかに上回っている。経済成長や経済の維持・安定に繋がるような産業の状況が,投機によって揺さぶられる状態が続いているのだ。投機の介入を選択的に妨げることができるようなシステムが市場に組み込まれているはずはなく,経済主体の計画的行動は裏切られる形となる。自由で,誰でも平等に参加できる,という市場の性質が完全に裏目に出たのが,投機行動である。

 第三に,第二点と重なるが,同一商品が様々な目論見の下に売買されるという点である。投機行動が,株式市場や債券市場のようにキャピタルゲインを狙った投機であることが明確な市場にとどまっていれば影響は少ない。しかし,一旦「市場」という枠組みを用いると,株式取引の場も,穀物取引の場も,区別をつけられなくなる。その結果として穀物や土地までもが投機対象に組み込まれていることによる影響は大きい。同一の商品が様々な目論見の下で取引され,かつその目論見の社会における根拠の大きさの違いが極端であることが市場そのものの不安定性をも増している。

 第四に,完全市場の下では,経済・社会の安定を目指したいという思惑を政府や多くの経済主体が持っていたとしても,その思惑が叶えられることは稀である,という点である。市場では,人数ではなく,資金量がモノを言う。多くの人数の賛同を得るような方向よりも,多くの資金が動くような方向に顔を向けるのが市場なのだ。著書にもあるように,市場には信用ならざる協力関係のみが存在し,本物の協力関係や信頼関係は育たない。利害や目論見が一致したときのみ協力関係が成立するのだ。そして,数では多い,安定を求める経済主体の思惑を排除した(というよりも,市場がそれらの思惑を排除するようなシステムになっているのだが)結果,市場そのものは安定性を失い,資金量にモノを言わせた経済主体もろとも瓦解してしまうのである。

 市場特有の振れはあるにしても,完全市場だって平均すれば標準的状態に落ち着くし,最終的には定常状態に落ち着くのではないか,という批判もありそうだ。確かにこれらの主張はある意味正しいが,社会,そして経済のまさに一員として生きている私たちは,あくまでも現在という時を生きているのであり,平均や最終的といった言葉はなんら安心感には繋がらない。他の例に例えるならば,現在地球温暖化を防止しようとする活動が国際的に行われているが,別に温暖化を防止しなくても,人類が滅び,現在棲息している動植物が滅び,そのうち新たな地球環境が生成される(定常状態に戻る)であろう。ここ数十年を平均してみても,そうひどい状態が続いてきたわけではないし,氷河期を含めれば平均的には全く問題ない。しかし,私たちは温暖化を何とかくい止めようとあがいている。それは,私たちが生きる現在,そして将来(あくまでも個人が認識できる範囲での将来)が一大事なのであって,最終段階や平均は問題ではないからである。

 ここまで述べてきたように,市場理論には欠陥が多い。最悪の中の最善の形態と呼ぶにはあまりに穴が多すぎる。市場の主人公たる経済主体,特に人の最も重要な性質を捉えることは現実に運用する理論を構築する上で欠かせない。にもかかわらず,これらをを捨象した市場理論(に基づく完全市場経済)と現実の間には齟齬が生じて当然である。

 前置きとして現代経済学について述べるつもりであったが,予定の字数の8割を使ってしまった。2025年のヴィジョンも折角構想したので,字数超過を厭わず述べさせていただく。

 論点は多くあるのだが,ここでは字数の関係と私の関心により,福祉と産業構造について簡単に述べたいと思う。

2025年社会 ────福祉制度では

 著書の中では高齢化に伴う問題として年金制度と介護保険制度,そして健康保険制度に関する言及があったので,これに関しては触れないことにする。

 私が新たにここで構想したいのは,少子化に関するセーフティーネットである。現在の出生率のまま数十年間が経てば,人口ピラミッドも(痩せたピラミッドではあれ)理想的なものとなるが,その段階に到達するまでの数十年間,いかに福祉や経済を安定状態のまま維持してゆくかが問題となる。しかし,現在のセーフティネットの上では,少子化問題を解決の方向へ導くことはできない。子どもを1人産んだことによる親の経済的負担は1000万円を超えると言われる上,経済的負担以外にも精神的負担(精神的な涵養を受けることもあるだろうが)やその他社会的制約が存在する。少子化が進行すればセーフティーネットとして張っておいた年金制度(それが税法式になっており,人口減に伴って積立金を取り崩したとしても)が機能しなくなってくる。市場規模の縮小も問題となってくる【註1】。誰もが安定的な経済状況を願っているにも関わらず,子どもを産むことに不安の残る不安定な社会状況が出生率の低下を招いているのである。さらに,出生率の低下が見通しの効かない社会状況を招くというデフレスパイラルにも似た循環を描いている。この克服のためには,経済的な面で,雇用や年金や健康保険制度に関わるセーフティーネットの張り替えが必要とされるのは当然のこと,社会的な面におけるセーフティーネットの張り替えも不可欠である。具体例として,今話題となっている義務教育学校の自由選択制度について考えてみよう。自由選択を認めれば,学校間の競争が高まり,また,子どもに適した学校を親が選ぶことができるので,理想的な教育を生む,との論調を耳にすることも多いが,これは親の自己決定権にこじつけた不安定化要因であり,文部省や教育委員会の責任回避であると考える。親はすべての学校の特徴や方針をすべて知っているわけではないし,学校を選択することによるリスクも当然生じる(自宅からかなり離れた学校に通わせたが,教育内容がかえって子どもに合わなかったなど)。しかし,これらのマイナス面は,子どもに通わせるべき学校を選択した親の責任であるという論理の下に処理されかねない。機会均等が教育における理想的制度であるかどうかは別にして,学校間の差異が公認されるようになれば,子どもをどの学校に行かせるべきか親は迷うことになるし,義務教育段階でも親の自己責任が問われるようになるのである。その結果,周囲に追従する傾向や,子どもを幼少の頃から塾に通わせる,といった現象が生じる。さらに付け加えれば,このことは子どもを産み控えることの一要因にもなり,少子化の進行を誘引する可能性も高いのである。まさに完全自由化した市場と相似した状況が生じるのである【註2】。ここでは義務学校教育を例に挙げたが,子育てに関わる事柄に関するセーフティーネットとして,将来の見通しを持って安心して子どもを産める制度作りを進めなければならない。具体的には子育てにかかる費用の一部を保険でまかなう制度や,子育て中の親の休業を認めたり,所得を保障する制度の拡充が必要である。

2025年社会 ────産業構造では

 現在日本では産業構造を急速に転換すべく(アメリカに追いつくべく)様々な政策が採られている。その中の基盤となっているのが,情報産業中心の産業構造である。日本を代表する経済紙の一面に情報産業に関する記事が掲載されない日がないほど,日本は情報産業化一辺倒である。しかし,アメリカを見習った情報産業化を押し進めることに危険はないのか。私はそこには大きな危険や留意すべき点があると考える。

 第一に,情報技術の陳腐化の速さである。情報技術の革新のペースは速く,また,一歩遅れただけでその技術はまったく有用性を持たないのである。例えば,鉄鋼製造に関わる機械の場合は,少々旧いものでも生産性が落ちるだけで有用性はゼロまで落ちないが,情報技術の場合は有用性はゼロである。開発競争の激しさと,万一基幹記述で遅れをとった時のリスクを考慮に入れると,情報産業化を双手を挙げて歓迎するわけにはいかない。

 第二に,第一点と関連するが,著書中でも述べられたオペレーティングシステムを先がけて開発し,普及させた国や企業にはどうあがいてもかなわない,という点である。あたかもお釈迦様の手の平であがいているような状況を招く可能性があるのである。日本や日本企業がいわゆる服従者にならないとは誰も断言できないのである。実際現在もパーソナルコンピュータの世界はウィンドウズが支配している。ちなみに,マッキントッシュを利用している私としては,デファクトスタンダードの影響力を日々実感している。

 第三に,雇用の不安定化を加速する点である。情報産業における技術の他の分野との相異を考えなければならない。かつての機械産業における技術は,個人として経験を積めば積むほど習熟度も上がり,熟練労働者として有用性が高まる性質を帯びていた。機械化やコンピュータ化が進んだ時代でもその性質をかなりの割合帯びていた。しかし,情報産業では熟練という概念を持ち込みにくい。ある技術に熟練することは可能であるが,その熟練を生かせる期間や割合が圧倒的に少ないのである。かつての産業では,若年のうちに技術を身につけ,労働期間が長くなるにつれて習熟した技術者となり,年齢と有用性がある程度比例するのに対し,情報産業では,新たな技術を習得することができる若年の時代が終わると,有用性を増したり,維持することが難しくなるのである。例えば,コボルというプログラミング言語に非常に習熟しても,数年後にCというまったく新しい,革新的な言語が開発されると,それまでの習熟はほぼ無意味になるのである(言語名はフィクション)。著書中に出てくる,能力開発バウチャーが機能しないのも当然である。

 また,上記の点以外にも,設備投資を必要としないので,資金や投資の流動性が高まる,個人に依拠する面が大きいので所得格差が広がる,などの議論すべき点がある。

 以上の論点を踏まえた上で,2025年の情報産業化のあるべき姿を考えてみよう。情報産業がアメリカで全盛なのはアメリカがバブル景気であるという事実と,デファクトスタンダード(オペレーティングシステム)の押し売りが上手だった点が原因である。バブル景気で金利高だからこそ,資金も収集しやすく,基幹産業が好調だからこそ失業問題も生じないのだ。もしもバブルが崩壊したならば,資金は早々にベンチャーから逃げ,もともと有能な技術者数人がいれば成立してしまうソフトハウスなどの余剰人員は大量に解雇される。基幹産業の成長や技術開発に力を置かなかったがために,基幹産業は世界との競争から遅れを取り,基幹産業での挽回を遂げることもできない。そのために,元々多かった工業や化学などの基幹産業からの失業者の数はさらに増える。しかし,その失業者を,いくら好調だからといって情報産業が取り込むことはできない。当然他のサーヴィス業からの失業者も出るため,国内は失業者であふれることになる。情報産業は好調であっても,十分な雇用を吸収することはできない。その上,先ほども述べたように極めて不安定な産業であるため,国内の不安は増すばかりである。このような状況が予想されることから考えると,情報産業化一辺倒の姿勢は危険であることが予測できよう。基幹産業を旧い,生産性の上がらない業種と見るのは,安定的な状況を担保するという意味では避けなければならない。情報産業の今まで述べてきた特徴を踏まえた上で,基幹産業を軽視せず,必要な融資や投資,競争力を維持もしくは高める政策を忘れてはならない。

最後に

 思わずして予定字数の2倍近くの文字数を費やしてしまったが,以上が今,私の考える市場と将来の社会状況に関して考える内容である。

 最後になったが,少々年金のセーフティーネットに関して不安がある。年金財源の危機的状況が,国民に元が取れる,取れない,という観点を普及させたという側面もあろうが,現在,一般的な国民の年金制度に対する考え方は,協力関係というよりもむしろ貯金感覚である。年金制度に関するセーフティーネットを構築する上では,国民の間では年金に対して協力や相互扶助といった考え方が薄れていることを考慮に入れ,制度面を整備してゆく必要がある。

脚註

【註1】平成11年12月17日に開かれた少子化対策推進関係閣僚会議では,少子化がもたらす影響として,「労働力人口の減少,高齢者比率の上昇や市場規模の縮小,現役世代の負担の増大などを通じ,経済成長へのマイナス効果や地域社会の活力の低下,子どもの健全な成長への悪影響など将来の我が国の社会経済に広く深刻な影響を与える」ことが懸念されると分析している。【本文へ戻る】

【註2】東京都は全国の他の道府県に比べて私立小学校・中学校の数が格段に多いため,ここで言及したような状況に既に陥っているのではないだろうか。【本文へ戻る】

参考文献

●金子勝,1999,『反グローバリズム』,岩波書店
●───,1999,ちくま新書214『セーフティーネットの政治経済学』,筑摩書房