REPORT10
2000年度夏学期(3年次)
社会学理論
自殺と尊厳死──デュルケーム自殺論
尊厳死は自殺
現在のところ,日本では医療行為の一部としての尊厳死は認められていないが,国家(州)によっては医療行為の一部として認められている。
ただ,ここで尊厳死という言葉を使うときに注意しなければならないのは,尊厳死という言葉そのものは,単なる生物の死ではないという意味での人間の死を表す言葉であり,極めて理念的な言葉であるということである。しかし,これとは異なり,このレポートの中では,尊厳死という言葉は実際に死へと導くために行われる具体的でまた実体的な手段を指している(むしろ安楽死と言った方が適当か)。
医療行為の一部としての尊厳死を認めない根拠としてよく用いられるのが,医師の幇助による尊厳死は,刑法202条に定める自殺幇助にあたる,というものである(実際に医療行為の一部として尊厳死が行われた場合は,その行為の責任を負う医師は自殺幇助に問われる)。すなわち,日本では,尊厳死も(少なくとも法律上は)自殺として扱われているのである。
もちろん定義自体に不備は多いが,デュルケムの定義に照応してみても,尊厳死は自殺に分類され,また,実際に行われている行為そのものを見ても,一般的に言われる自殺と大差はない。特に,医師の幇助なしに行われた尊厳死の場合はこのことが強く言え,この場合,薬物を過飲するなど,自殺と同様の手段が用いられるのである。
このように,自殺と尊厳死は行為上は同じものであるにもかかわらず,日本の世論の自殺と尊厳死に対する言説は大きく異なっている。一見して分かるのは,自殺の場合は,否定的な意味を込められるのに対し,尊厳死の場合は,自己決定という言葉を使って肯定的に語られているという相異である。もちろん,時代背景が世論の解釈には大きく影響しているため,各々に対する言説は固定的なものではない。
また,注目すべきなのは,自殺の原因が多かれ少なかれ社会に帰されることが多いのに対し,尊厳死はもっぱら個人の問題に帰着されることが多いという点であろう。当然,自殺の要因で個人に帰着される部分が大きい場合もあり,尊厳死が社会問題として取り上げられていることは認めなければならないが,先ほど述べたように,言説の内容としては,「自殺=社会,尊厳死=個人」という簡単な図式化をすることができるだろう。
自殺=社会,尊厳死=個人
では,このような言説の差は,何に起因しているのだろうか。
まず考えられるのは,互酬性の有無である。日本の社会に生きる人間にとって,自殺は自分が生きる空間と同じ空間で生じる現象のように感じられ,自殺者との間に互酬性が生じやすい。これが,「身近な感じがする」といった言葉で表出するのだ。また,情報機関や報道によって自殺者の出自や属性が社会に流布され,社会に生きる人々が自らの属性を響応させやすいことも言えるだろう。その結果,社会に生きる人ならば誰にでもありえる現象……社会に要因があるのではないか,という言説が登場するのである。これに対して,尊厳死の場合は互酬性が希薄である。そして,それは恐らく現代の日本での医療のあり方に関係している。これも議論を呼ぶ問題であるが,現代日本では,死に直面するような患者・病人は社会には生きていない。死に直面するような患者は施設内で治療を施される場合が多く,別の言い方をすれば,社会から隔離されている。死に臨む患者が社会から隔離されているから,「身近に感じられず」,尊厳死を選んだ者との間に互酬性が生じにくいのではないか。また,社会に生きる人間を離れて病院に入り,死に臨む状態になると,彼の属性は「○○病の重症患者」(場合によっては「元○○社長」などの他の属性もありうる)という形でしか社会には流布されず,互酬性が形成されにくい。そもそも自分が生きている社会とは別の世界の人の行為なのだから,社会に要因があるとは考えにくいのである。時に,尊厳死が病院の問題として取り上げられることはあっても,社会全体の問題にまで拡張して議論されることが少ないのも,病院を社会から隔離された施設として考えているからではないか。
二点目として考えられるのは,病気や死に対する我々の考え方である。自殺の要因を社会に帰するのは,社会に何か問題点があり,社会を「改善」してゆかなければならない,という考えの現れと言えはしないだろうか。我々は社会に対して,自分が変えることができるという印象を抱いている(社会運動など)。自殺を社会的要因に帰する言説を読むと,自殺を発生させるような社会を,自らの力も加えることで変化させてゆく意志が感じられる。その一方で,尊厳死の場合は,病気や死に対しての絶対的な諦念や服従の意が見て取れる。個人の決定の問題に帰するということは,逆に考えれば,尊厳死を行おうとしている者との関係者を無視し,また,意図的にその関係性を断ち切る思考行動であるといえる。患者は一度死に直面したら,彼に関係ある人の手をも離れてしまう(関係性がなくなってしまう)との考えが社会に生きる人を支配しているのではないだろうか。また,さらに踏み込んで言えば,このような考えは,自らが必ず迎える死には,当事者になるまで関わりたくない,という冷めた意識に裏付けられたものとも考えられる。自殺の場合は,自分にも可能性はあるけれども,あくまで可能性であって必然的に生じるわけではないという点が,今まで述べてきたような態度や考えを生んでいるのとは対照的である。
結び
デュルケームに言わせれば,尊厳死も自殺も区別なく語られたであろうが,社会のこれらの二種類の死に対する言説の違いから,その内容の違いを少々考えてみた。考察を踏み込めば踏み込むほど,価値観や人間の本性などの根元的な問題に帰着してしまう点が,社会学的な分析から離れているかもしれないように自分で感じた。
参考文献
●デュルケーム/宮島喬訳,1985,中公文庫932『自殺論』,中央公論社