REPORT16


2000年度夏学期(3年次)
現代社会論演習
アンソニー・ギデンズ『社会学』に関する16小問

小問一覧(問題番号をクリックすると本文にジャンプします。)

【問1】[文化,個人,社会]S・フロイト,J・ピアジェ,G・H・ミードの諸説を,人間の「社会化(socialization)」という観点から各々,概観せよ。
【問2】
[サイバースペース]M・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という主張を論評せよ。
【問3】
[統治,政治権力,闘争]M・ウェーバーの「権力」概念について説明せよ。
【問4】
[統治,政治権力,闘争]ソビエト連邦の崩壊以降,世界の趨勢は「自由民主主義(liberal democracy)」により大きく傾いていると言われる。この自由民主主義を構成する「自由主義(liberalism)」と「民主主義(democracy)」という二つの原理を,両者の違いに留意して説明せよ。
【問5】
[ジェンダーとセクシュアリティ]「ジェンダー」ならびに「セクシュアリティ」という概念は,なぜ必要なのか。それらによって認識される具体的な事象に言及しつつ述べよ。
【問6】
[身体──摂食,病気,高齢化]「嗜癖(addiction)」と呼ばれる行動パターンは,現在どのように説明されているのか,概観せよ。
【問7】
[身体──摂食,病気,高齢化]現在,人間の身体をめぐる様々な局面において「自己決定」という主張がなされている。この「自己決定」について考察せよ。
【問8】
[マスメディアとポピュラー文化]コミュニケーション・メディアについて,これまでどのような理論が提示されてきたか。概観せよ。
【問9】
[逸脱と犯罪]社会学における「アノミー」概念の変遷を,デュルケーム,パーソンズ,マートンの諸説に言及しながら,概観せよ。
【問10】
[都市と現代アーバニズムの発達]「シカゴ学派」が提示した都市社会学について,概述せよ。
【問11】
[社会成層と階級構造]社会成層に関する,マルクス,ウェーバー,ライト,パーキンの4人の社会学者の見解について概述せよ。
【問12】
[社会的相互行為と日常生活]「エスノメソドロジー」の社会学理論としての特徴と限界について,その具体的な研究に言及しつつ,述べよ。
【問13】
[エスニシティと人権]エスニシティをめぐる問題について,(1)ナチズム,(2)日本人と韓国・朝鮮人,(3)1950年代のアメリカにおける公民権運動,この3つを比較しながら述べよ。
【問14】
[労働と経済生活]分業ならびに交換に関するスミスとマルクスの見解について,その相違が明確になるよう論ぜよ。
【問15】
[宗教]宗教に関する,(1)フォイエルバッハ−マルクス,(2)デュルケーム,(3)ウェーバー,この3者(4者)の見解を概述せよ。
【問16】
[革命と社会運動]「新しい社会運動」と呼ばれるものについて論ぜよ。

課題文献

●アンソニー・ギデンズ/松尾精文ほか訳,1992,『社会学』改訂第3版,而立書房


【問1】[文化,個人,社会]S・フロイト,J・ピアジェ,G・H・ミードの諸説を,人間の「社会化(socialization)」という観点から各々,概観せよ。

 人間の社会化とは,ギデンズによれば,「無力な人間が徐々に自己自覚を行い,理解力を持った人間になり,その子が生まれおちた文化の様式に習熟していく課程」であると定義されている。この社会化なる作用についてのS・フロイト,J・ピアジェ,G・H・ミードの説を概観する。

 S・フロイトは,幼児期の経験が無意識のうちに自己意識の基盤となるという考え方に礎を置き,幼児がその不安を抑制する課程が社会化であるとしている。幼児は無力のために行動力を抑制できない存在であり,そのような幼児が,社会化を通じて自分の欲求や欲望を必ずしも即座には充足し得ないことを学習してゆくのである。フロイトはそれらの欲求の中でもエロス的欲求(他者との親密で心地よい身体接触への一般的な欲求)に着目し,このエロス的欲求を克服する段階をエディプス期として,社会化の段階の中で最も重要であると考えている。男子の場合はこの時期,自らのエロス的欲求の対象である母親を独占する父親に対し,敵意を経験し,これがエディプス・コンプレックスを引き起こす。そして彼が,母親に対するエロス的欲求と父親に対する敵意を共に抑制したときにエディプス・コンプレックスは克服され,社会化における重要なステップを踏むことになるのである。

 J・ピアジェは,社会化を考える上で,子どもが持つ,世界の意味を能動的に理解しようとする能力を重視している。彼は子どもの観察と実験を通じて,人間は認知発達(自分自身,あるいは自分を取り囲む外界について思考できるようになること)のいくつかの段階を踏み,社会化してゆくのだと考えた。そしてその段階は,自分を取り囲む外界が自らの直接的知覚とは独立に存在していることを知る感覚運動期,言語や象徴を扱うようになる前操作期,抽象的観念や論理的観念を修得する具体的操作期,そして,高度に抽象的な概念や仮説的な考え方を理解できるようになる形式的操作期,の4段階に区分された(ただし,普遍的なのは初めの三段階のみであるり,形式的操作期は学校教育の課程に依存しているとされた)。

 G・H・ミードは,社会化において他者のまなざしを重視した。まず幼児は,他者の模倣を通じて他者が自分を見るように自分自身を見ることができるようになる。その結果,客我(社会的自我)と主我(自然に生ずる欲求や願望)を区別できるようになり,自己認識を達成・発達させるとミードは論じた。そしてさらに,子どもは自分が成長を遂げてゆく文化が内包する一般的な価値体系や道徳規則,すなわち一般化された他者を理解できるようになることによって,より一層の発達を遂げるとされた。

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【問2】[サイバースペース]M・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という主張を論評せよ。

 M・マクルーハンのいう,「メディアはメッセージである」という主張には,マクルーハンの,メディアは何らかの内容を伝達する手段であるというよりもむしろ,「人間の結合と行動の尺度と形態を形成し,統制するもの」であるという意味合いが込められている。

 この言葉の現代的な意味に関しての解釈は様々なものがある。メディアを身体の拡張として捉え,外的拡張から内的拡張への変化に関して述べた論評など面白い視点も多い。しかし,この言葉を(かなり範囲を狭めて)コンピュータ(・ネットワーク)に関して考えた場合には,(マン・マシン)インターフェースのあり方について示唆を与えているものだと解釈することができる。

 コンピュータのインターフェースは,数年前まではプロンプタ,現在では仮想デスクトップに代表されるGUI(Graphical User Interface)が中心であり,ほぼすべての情報を視覚でキャプチャしていた(いる)。これは,我々が現実世界で日常的に用いているメディアのあり方とは大きく異なるものであり,我々がコンピュータでコミュニケーションを行う際には,自ずから「結合と行動の尺度と形態」は日常以上に「統制」されているのである。(メディアの持つ作用を「形成」と述べるか「統制」と述べるかを截然と区別することはできないが,我々が最も「結合と行動の尺度と形態」の自由度が大きく,ストレスフルではないと考える状況でのメディアの状況を述べるときには「形成」と解釈し,それ以外の場合においては「統制」と解釈するのが適当であろう。)言い換えれば,我々はコンピュータに「自らを適合させる形」をとることによって,はじめてコンピュータをメディアとして利用できているのである。その統制を何とか克服しようとして考えられたのがいわゆるVR(Virtual Reality)であるとも考えられるが,VRの欠点は,インターフェースは視覚以外の分野に拡張されたが,今度は人間が現実世界から遮断され,VRの世界に没入(jack-in)しなければならないということである。GUIでは,最も自由度の高い現実世界に浮かんでいる不自由な箱に,自らを適合させなければならないし,VRでは,最も自由度の高い現実世界,そして我々が生物的に存在している現実空間を捨象しなければならない。そこで,現代でコンピュータに求められているのは,より直覚的なインターフェースであり,また,現実世界と切り離されることなく,現実世界と重層をなすような,AR(Augmented Reality)なのである。我々が生きる現実世界の一部のみを取り出して拡張するメディアではなく,現実世界の上に重ね合わせることによって,「人間の結合と行動の尺度と形態」を拡張するメディアが,人間の新たな感覚を生み出すと言っては言い過ぎか。

参考文献

●石井裕+タンジブル・メディア・グループ/マサチューセッツ工科大学メディアラボ,2000,『タンジブル・ビット 情報の感触 情報の気配』,NTT出版
●NTT出版,『InterCommunication』,第9巻第3号(No.33,通巻34号,2000年夏号)

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【問3】[統治,政治権力,闘争]M・ウェーバーの「権力」概念について説明せよ。

 M・ウェーバーによれば権力(Macht)とは「ある社会関係において,自らの意志を,たとえ抵抗に反してでも貫徹することができるすべての可能性」である。しかしながら,彼が言う権力の姿には幾つかの内包的な概念がある。最も注意しなければならないのは,暴力の有無は権力の構成要件ではないということである。

 まず,権力(Macht)とは,最も外側に位置する概念であり,暴力を用いる場合も含むものである。

 そして,その権力(Macht)の一段内側の概念として,支配(Herrschaft)がある。これは,服従する側の「何らかの利益のために服従したい」という主体性によって支えられている。そしてこの服従の態度を生んでいるのが正当性(Legitimitat)であり,服従者は,権力の正当性を認めることによって,服従を自ら欲し,また,自発的に服従するのである。ここで注意すべきなのは,服従者の意志は権力の外側に位置しており,服従すべきか否かは彼の自由であるということである。

 さらに内側の概念に規律訓練(Disziplim)がある。これは,服従する側の意志が予め服従するように,いわばプログラムされているために生じる服従を説明する言葉である。服従者の意志や意欲そのものが権力者によって形成されているという点で,これは支配とは異なっている。つまり,服従するか否かという選択肢を彼らは持たないのである。

 以上の三重同心円モデルによって,ウェーバーの権力概念は整理することができる。

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【問4】[統治,政治権力,闘争]ソビエト連邦の崩壊以降,世界の趨勢は「自由民主主義(liberal democracy)」により大きく傾いていると言われる。この自由民主主義を構成する「自由主義(liberalism)」と「民主主義(democracy)」という二つの原理を,両者の違いに留意して説明せよ。

 自由民主制の定義はギデンズによれば,「有権者が二つ以上の政党を選択でき,また,成人の大多数が投票権を有している」制度のことである。この自由民主制が依拠している自由民主主義(liberal democracy)を構成する要素である自由主義(liberalism)と民主主義(democracy)の原理は,ギデンズの定義にも現れている。

 まず,民主主義とは,民衆によって(デーモス),意志の複雑性の低減のために,複数の意志を一つの意志(ルソーのいう一般意志)にまとめあげる(クラトス)システムのことをいう。このシステムのポイントは,多数の民衆が多様な意志を述べる権利を持ちながらも,結局は正当であると認められた制度によって,意志がひとつにまとめあげられるという点にある。そして,この「一つの意志」が全体主義(totalitarianism)に繋がるとして(北韓が例である),複数の意志,多様性を認めようという方向性が自由主義である。

 上述のギデンズの定義の中では,「二つ以上の政党」の部分が自由主義的要素であり,「選択」の部分がクラトス的要素であり,「成人の大多数が投票権を有している」の部分がデーモスの要素を表している。

 なお,消極的自由主義という概念があるが,これは,ミルが言ったもので,自分に迷惑をかけるかどうかを問わず,他者に迷惑をかけなければ何をしてもよいとする考え方であり,民主主義と対比して捉えるようなものではない。

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【問5】[ジェンダーとセクシュアリティ]「ジェンダー」ならびに「セクシュアリティ」という概念は,なぜ必要なのか。それらによって認識される具体的な事象に言及しつつ述べよ。

 ジェンダーは,社会の中で生活することによって作り上げられるものであり,男女間の心理的・社会的・文化的差異を指す語である。また,セクシュアリティは性や性欲のあり方や,それを取り巻く意見や見方を意味する語である。

 ジェンダーという語は,セックスという語が意味する生物的な性と,社会的性役割を区別するために重要である。現代の日本の中でもその片鱗は残っているが,社会の中で男性と女性が果たしている役割は異なっている。この相異は純粋にセックスの相異に由来しているものではない。女性が特に乳児期の子育ての中心的役割を担っていることや,社会で働いているのは男性が中心であることを,生物学的観点から説明しようとする論調もあるが,この社会的性役割,ジェンダーの差の裏には,それまで権力や上位世代,マスメディアなどによって規律訓練されてきたか,また,下位世代が拒否してきた言説が存在するのである。これらの言説の存在を明確に示すために,ジェンダー概念は必要である。

 また,セクシュアリティ概念は,歴史的には,性に対する規範の存在を明確にするために必要であった。20世紀初頭になされたセクシュアリティに関する議論において,「生殖に無関係の性→生殖に関係する性→合法的な性」と位相が変化するにともなって,そこに「抑圧」が働いていることが論じられたが,この議論は,当時の性のあり方にはすでに抑圧が働いていたことを認識させ,新たに性の規範を議論の俎上に上げたのである。また,現代では,性同一性障害や同性愛に見られるようなセックスとsexual orientation,sexual identityの相異を語る上でも,その相異を明確に示す概念としてセクシュアリティという語は重要な役割を果たしている。

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【問6】[身体──摂食,病気,高齢化]「嗜癖(addiction)」と呼ばれる行動パターンは,現在どのように説明されているのか,概観せよ。

 嗜癖(addiction)とは,「当人が抵抗し難かったり,抵抗できないことに気づく,衝動脅迫的行動様式」(ギデンズ)である。また,「コントロールを失い,生活そのものの維持を危険にさらす習慣」ということもできる。

 まず,講義中にも紹介された,斎藤学の議論に基づいて概観する。嗜癖行動の基盤には,人間関係に対する嗜癖(共依存)が存在する。共依存(codependancy)とは,一方が他方を支配し,その他方が支配の魅力を提供することによって一方を支配するという闘争,そしてそのことによって独りの淋しさを紛らわそうとする行動のことである。この人間関係に対する嗜癖を一次嗜癖と呼ぶ。そして,その一次嗜癖が満たされないとき,その飢餓感から人間は物質嗜癖(アルコールなど)や過程嗜癖(セックスなど)から構成される二次嗜癖に移行するのである。二次嗜癖の中でも,例えばダイエットなどの自らの身体に関するものについては,次のような説明もできる。共依存には,他者をコントロールすることによって独りでない自分を確認する働きがあるが,その他者が外部に発見できない場合,自分自身をコントロールの対象とすることによって自らの支配力を確認するという行動に出るのである。さらに,そのような嗜癖的行動が社会によって礼賛されている場合,嗜癖はより一層深いものとなる。例えば,男性にとってはワーカーホリック,女性にとってはダイエットが挙げられる。

 また,1950年代からのアメリカ(日本では1960年代から)での女性解放運動期に見られるような,低い自己評価と高い自我の理想の間の,社会の中でのギャップを埋めるために嗜癖行動が行われるという,社会構造の中に嗜癖の原因を求める説明もある。

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【問7】[身体──摂食,病気,高齢化]現在,人間の身体をめぐる様々な局面において「自己決定」という主張がなされている。この「自己決定」について考察せよ。

 自己決定には自己責任がつきまとう。しかしながら,自己決定の結果を,自分だけでは負いきれない場合があることを忘れてはならない。ここでは身体に関しての議論であるため深入りはしないが,例えば401kに代表される社会保障についてもこれは言えることである。

 自己決定は個人(患者)の意志や選択を尊重することになるが,場合によっては,個人(患者)の独断に終わったり,社会や医師の無責任に終わったり,また,自己決定の範囲を超えた部分に関しても自己決定の理論に帰させられる危険性も十分に考えられうる。ここでは,その危険性を中心に考察する。

 まず,個人(患者)の独断に終わる危険性について。死の「自己決定」を例に挙げて考えると,まず,現代社会では,人間は外部との関係性を絶って生きてゆくことはできない(というよりむしろ,社会が構成されているという時点で,人間が外部との関係を持っていることは自明である)。脳死に限らず,臓器移植に見られるような「身体の社会化」とまではいかなくても,個人(患者)は,自分がが死ぬことの周囲に与える影響を考る必要がある。社会の中で生きている個人(患者)にとって,無闇に死の自己決定を行うことは独断に陥る危険性がある。

 次に,社会や医師の無責任について。個人(患者)に選択権を与える以上,医師は個人(患者)に十分な情報を与えなければならない。しかし,個人(患者)の選択の結果として問題が生じた場合,自己決定=自己責任の理論をを全面に押し出して医師が責任の回避をする危険性がある。また,身体に関する自己決定には治療方針に関するものばかりではない。人間には生まれつきの体質や身体上の特徴もあれば,場合によっては遺伝的に不利な形質(病気にかかりやすいなど)を持っている場合もある。しかし,このような個人を,社会の中の個人としてとらえる場合,自己決定=自己責任の理論を全面に押し出して考えることは危険である。「生まれつきの社会的に不利な形質を持っているのならば,それを努力で克服するのが当然であり,それをしないのは自己決定=自己責任である」といった社会の無責任に繋がる恐れがあるからである。

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【問8】[マスメディアとポピュラー文化]コミュニケーション・メディアについて,これまでどのような理論が提示されてきたか。概観せよ。

 メディアに関する初期の理論として挙げられるのは,H・イニスとM・マクルーハンである。イニスはメディアが対照的な社会形態の組織化に強い影響を及ぼすと述べ,それを受ける形で,マクルーハンは「メディアはメッセージである」という一節に見られるように,メディアはそこを流れる内容よりもむしろ,社会構造そのものに影響を与えると考えた。

 またハーバーマスは,かつてのフランクフルト学派の「文化産業の拡大が個人の批判的・自主的思考能力を低下させる」という議論を受け継ぎつつも異なった方向これを展開し,新聞によって公共圏が出現したと考えた。しかし,マスメディアの出現(商業主義,好奇心第一主義など)によって公共圏は消滅したと述べた。

 ボードリヤールはハイパーリアリティという世界を想起した。彼によれば,テレビなどのメディアによって伝達されるリアリティ(本物)はすでに存在せず,メディアを通じて伝達されたそのイメージそのものがリアリティである。彼のいうハイパーリアリティとは,人間の行動と,メディアによって供給されるイメージの混合物から構成される世界なのである。そしてハイパーリアリティの世界は,シミュラクラから成立している,すなわち,ハイパーリアリティの世界では,メディアによって与えられるあるイメージは,そのイメージの先にリアリティ(本物)があるからこそ意味を持つのではなく,メディアを通じて人間に供給される他のイメージを通じてのみ,そのイメージは意味を持つのである。

 トンプソンは,メディアによってなされる相互行為を,対面的相互行為(会話など),媒介された相互行為(電話など),媒介された疑似相互行為(マスメディアなど)の3つに分類しした。そして,その3種は社会の中で交じり合っており,マスメディアは公的なものと私的なものの均衡を変容させていくと述べた。彼は,ハーバーマスとは対照的に,以前よりも多くのものが公領域に持ち込まれ,頻繁な議論や論争がなされると考えたのである。

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【問9】[逸脱と犯罪]社会学における「アノミー」概念の変遷を,デュルケーム,パーソンズ,マートンの諸説に言及しながら,概観せよ。

 アノミーという概念は,デュルケムが最初に用いたものである。彼は,伝統的な規範や基準が,それに変わるものを持たないまま弱体化している社会の中で,個人の行動を導くような規範が存在しないという社会状態を指してアノミーと呼んだ。その後パーソンズは,次に述べるマートンが提示した「葛藤に対する反応類型」の図式にかなり近い「緊張処理パターン」を提示したものの,彼にとってのアノミー概念も,あくまでも状態を表すスタティックなものであるという点でデュルケームの考え方に近いものであった。

 これに対しマートンは,「受容されている規範と社会的現実が矛盾する場合に個人にかかる重圧」のことをアノミーと呼び,「葛藤に対する反応類型」として,規範に対する評価性と現実に対する評価性に基づき,同調(conformity),革新(innovation),儀礼(ritualism),逃避(retreatism)の四類型,そして,現実と規範の両方に対して「拒絶」を示し,新たなものを生成しようとする反乱(rebellion)の類型を示した。マートンはデュルケムやパーソンズとは異なり,アノミーをスタティックなものばかりとは考えず,反乱の類型に見られるように,何か新しいものが生まれる(社会運動が起こる)可能性のある状態としてアノミーをとらえたのである。このことは,アノミー概念の社会変動論への接続ともいえる。

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【問10】[都市と現代アーバニズムの発達]「シカゴ学派」が提示した都市社会学について,概述せよ。

 シカゴ学派が提示した都市社会学において,重要な二つの概念は都市生態学とアーバニズムである。

 都市生態学は,自然科学分野における生態学の研究方法を踏まえ,都市は(自然・社会)環境がもたらす有利な特性に応じて成長するという考えに基づいた分析メソッドである。パークらはこのメソッドを用い,都市は希少資源(原材料,短い通勤時間など)を巡る競争・侵入・遷移・適応などの過程を経て,「自然に生じた地域」としてとらえた。また,後のホーリーは希少資源を巡る競争に焦点を当てず,その代わりに都市の地域間の相互依存や分化に着目した分析を行っている。これらの都市生態学は,経験的調査研究の促進にも貢献してきたが,都市の計画性や意図的な設計を過小評価してしまうという点に問題がある。

 また,もう一つの重要な概念であるアーバニズムは,都市の分化ではなく,社会の生存形態,生活様式に着目した概念である。ワースは,アーバニズムという生活様式について語る際,都市生活の非人格性,都市での高い流動性,競争的な姿を指摘した。しかし,ワースの指摘は過度の一般化をしているという批判も多く,都市は非人格的で匿名的な社会関係を伴うが,同時に多様性や親密性の源泉となっているととらえるのが一般的である。なお,アーバニズムの概念はシカゴ学派の後も,創出環境を示す語としてしばし用いられている。

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【問11】[社会成層と階級構造]社会成層に関する,マルクス,ウェーバー,ライト,パーキンの4人の社会学者の見解について概述せよ。

 マルクスは,社会における客観的に構造化された経済的不平等に着目して,社会成層について考えている。彼にとって社会成層とは,生産手段に対して共通の結びつきを持つ人々がかたちづくる集団のことを指し,階級間の関係は搾取であった。すなわち,彼は生産手段を持つ資本家と,労働力を彼らに売る労働者(プロレタリアート)の二大階級で社会成層を説明したのである。しかしながら,彼は実際の階級システムは更に複雑であることも認めている。

 ウェーバーは,現実とそれを分節するための理念系が分析には必要であるとの信念に基づき,マルクスの見解を受け入れつつ,マルクスが想起したよりも多様な経済要因を重視した。また,階級の他に地位,党派が成層を考える際の基本となる要素だと考えた。階級(経済的状況)に関しては,所有とは直接関係のない資格や技能などの経済的資源の差異によっても階級分化は派生するとした。地位に関しては,社会集団の中,他人から与えられる社会的敬意や威信に関する差異によって生じるとした。党派に関しては,宗派や政党,労働組合などを前提とし,これらは人々の成層形成に影響を与え,権力の源泉となっているとした。

 ライトは,近現代の資本主義的生産では,経済的資源の支配に,資本投下ないし金融資本の支配・物的生産手段の支配・労働力の支配の三次元が存在し,その三つの次元を通じて階級を特定することが可能であると考えた。しかし,彼は,三次元すべてを支配する資本家階級と,一つも支配していない労働者階級のいずれにも分類できない「矛盾する階級上の位置づけ」について言及し,ホワイトカラー層や専門的職業従事者をモデルに取り込むことに成功した。

 パーキンは,財(生産手段)の所有が階級構造の基盤となるとしたが,あくまでも財は社会的締め出しの一形態に過ぎないとした。社会的締め出しは,少数者が独占して他の人々に対する権力の基盤として用いるこ手段である。そして社会的締め出しには,集団が部外者を区別する「排除」,他の人々が独占してきた資源を取得する努力である「奪取」の二つの過程が関与しており,両方の戦略を同時に用いる「二重の締め出し」が行われる場合もあるとしている。

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【問12】[社会的相互行為と日常生活]「エスノメソドロジー」の社会学理論としての特徴と限界について,その具体的な研究に言及しつつ,述べよ。

 エスノメソドロジーの特徴としては,主に(1)潜在的なものと顕在的なものを分けて認識し,顕在的な行為の裏に潜む潜在的なコードやコンテクスト,ルールを理解するという点,(2)日常生活に埋め込まれている社会の形式を取り出すべく,日常生活,換言すれば常識を再評価する点,(3)個々のケース,すなわちミクロな次元を重視する点,が挙げられる。

 例えば,言い間違いの研究をする際は,言い間違いは,普段は意識から抑圧されていたり,意識して抑圧しようとしているがうまく抑圧できない感情によって無意識のうちに誘発されている,という前提に基づいて,その抑圧されている感情(潜在的なもの)を,言い間違い(顕在的なもの)によって読み解こうとしている。また,挨拶やいわゆる決まり文句を研究する際は,日常生活では疑いもしない常識,そしてその背後にある,話し手と聞き手の期待などを改めて分析する必要があるのである。

 しかしながら,個々のケースを中心とした分析には限界がある。例えば儀礼的無関心に関する問題では,個々人のミクロな行動を基礎づけている社会の変動はエスノメソドロジーではうまく包摂できないように,社会に対する提言やマクロな分析のレベルに到達することが非常に困難である。また,エスノメソドロジーはミクロなレベルで個々の姿を写し取るため,差別などのマイナス面までも正確に読みとることができ,差別の再生産に繋がるという批判もある。

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【問13】[エスニシティと人権]エスニシティをめぐる問題について,(1)ナチズム,(2)日本人と韓国・朝鮮人,(3)1950年代のアメリカにおける公民権運動,この3つを比較しながら述べよ。

 ナチズム,日本人と韓国・朝鮮人,1950年代のアメリカの公民権運動,それぞれにおけるエスニシティの問題は異質のものである。ナチズムの問題は,それまで同一のエスニシティを持っていた集団を,新たなエスニシティを強制的に普及させることによって分断し,マイノリティ側を差別するものである。日本人と韓国・朝鮮人の問題は,差別側(マジョリティと呼んでもよいか)がそれまで異なるエスニシティを持っていた被差別側(マイノリティ)を,無理に統合させようとするものである。1950年代のアメリカの公民権運動に関しては,被差別側(マイノリティ)が,差別側(マジョリティ)に対して,エスニシティを共有することを求めるものである。

 このように整理すると問題は単純なように見えるが,もちろん問題は複雑である。これらのケースにおける最大の問題は,関係する立場のうち,少なくとも片方は二重のエスニシティを感じているという点であるように思う。ナチズムの場合は,非差別側であったユダヤ人はドイツ人と同一のエスニシティを抱きつつも,切り離されたユダヤ人(そしてこれはドイツ人と対置されるものである)としてのエスニシティを抱かなければならなかったし,韓国・朝鮮人は韓国・朝鮮人としてのエスニシティ(同胞意識)を抱きつつも日本人としてのエスニシティを強制された。また,日本人も韓国・朝鮮人に同じエスニシティを強制しながらも心の中では差別していたわけである。1950年代のアメリカの公民権運動の場合は,黒人集団は白人と同じ権利を求め,すなわち,白人と(白人の,ではない)エスニシティを共有しようとしているのにも関わらず,Black Is Beautifulというスローガンに現れているように,黒人としてのエスニシティを鼓舞するような動きもあったわけである。

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【問14】[労働と経済生活]分業ならびに交換に関するスミスとマルクスの見解について,その相違が明確になるよう論ぜよ。

 分業についは,A・スミスはピンの生産の例を挙げているように,より効率的な生産を可能にして生産力の増大を生むと評価しているのに対し,K・マルクスは人間の能力の全的な可能性の実現を疎外する(人間全体の能力を一部分にのみ見出す)ものであるとし,否定的な見方をしている。また,交換に関しては,スミスは交換の質的な差異(W→G→W’)の部分に着目し,交換によってお互いの欲するものを入手することができる(後の言葉でいえば全体として効用が高まる)と評価するのに対し,マルクスは交換の量的な差異(G→W→G’),すなわち資本化に着目し,これが搾取の源泉であるとして批判した。

 この両者の解釈の違いは労働のあり方に対する両者の相異に起因している。スミスは労働を単に生産手段として解釈するにとどまり,また,場合によっては自らの満足のため(それは労働そのものに対してではなく,労働によって得られる物質である)の手段であると考えていた,つまり,スミスは労働と人間性を対立するものとは見ていなかったのではないか。それに対し,マルクスは労働を人間性を犠牲にするもの,資本家の利潤の源泉になるものと見ているがために,このような解釈の相異が生じるのであろう。

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【問15】[宗教]宗教に関する,(1)フォイエルバッハ−マルクス,(2)デュルケーム,(3)ウェーバー,この3者(4者)の見解を概述せよ。

 フォイエルバッハは,人間文化の発達過程の中で人間が生み出した観念と価値を「疎外」する,すなわち,神や宗教的な力に投影することで,宗教は成立していると考えた。マルクスもその考えを受け容れたが,宗教は「人類の阿片である」という言葉を用いて,来世で得られるものを約束することで,人々の注意をこの世の不平等や不公正からそらす働きをする,極めてイデオロギー的なものであるとした。宗教は,富や権力の不平等を正当化する根拠をもたらすのである。

 デュルケームは,宗教を社会を凝集させるものとしてとらえた。トーテム信仰に見られるように,宗教においては,社会そのものが崇拝の対象であると考え,宗教に伴う儀礼や儀式は集団の連帯意識,社会に対する結束を強める働きを持っているとした。また,宗教は伝統的文化における人々の思考様式を条件付けているともしている。ただし,宗教による(外部に対する)不和や対立に関しては特に言及していない(信者内部に生ずる宗教的価値の裏返しと考えられる)。

 ウェーバーは,宗教を(意図せずも)社会経済生活に大きな影響を及ぼすものとしてとらえ,救済宗教には社会を変化する革命的な側面があると考えた。

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【問16】[革命と社会運動]「新しい社会運動」と呼ばれるものについて論ぜよ。

 かつての社会運動といわゆる「新しい社会運動」は,それぞれ(全域性,解放),(局所性,抵抗)という構図でとらえることができる。「新しい社会運動」はいわばエゴイズムに基づいた社会運動であり,現在ある生活を維持することに対する強い情熱の現れである。現在のように複雑な社会の中では,あらゆる課題が両義的な意味を含んでおり,さらにその影響が与り知るようことができないほど大きな課題に関しては,何もしないのが合理的な人間の姿だからである。しかも,NIMBY(Not In My BackYard)という言葉に象徴されるように,この「抵抗」の範囲は極めて狭く,ここに「新しい社会運動」の持つ難しい問題があるのである。

 「新しい社会運動」は安定した国家に特徴的な運動である。「新しい社会運動」を引き起こすような問題は,局所的な負の効用と全域的な正の効用をもたらすわけであるが,社会的・経済的に発展途上の国の場合は,個人にとっては差し引き正になる場合が多い。しかしながら,安定している国の場合は差し引き負になる場合や,正になってもその効用を実感できない場合が多いのである。

 国全体として見た場合,安定期に入った国家にとって,これまでの市民運動とは異なり,「新しい社会運動」は新たな変革を阻害する,望まざるべき社会の活性化として今後働く可能性が大きい。

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