REPORT18


2000年度夏学期(3年次)
社会学理論
相手の認証――M.McLuhanおよびH.Ishii の議論を参考に

はじめに

 私は日常からメディア論(特にサイバースペース)に関心を持っているが,先日,マサチューセッツ工科大学のメディアラボの教授であるHiroshi Ishii(石井裕)氏の講演を聴く機会があり,そこで,サイバースペースと現実の空間(人間)とのインターフェースの姿について触発された。

 彼の主張に関してはホームページなどで紹介されているので割愛するが,このレポートでは,彼の講演の内容と,Paul Levinsonの著作を参考にしてメディアに関する一つのトピックについて少々考察してみたい。

M.McLuhanとP.Levinsonの議論より

 現在,メディア論について語る上で,“The medium is the message.”という有名な言葉を残したMarshall McLuhanを抜きにして考えることはできない。彼の言った“The medium is the message.”という一節は,メディアによって伝達されるコンテンツよりも,それを利用する行為自身の方が影響力を持つことを象徴的に示している[Levinson,2000:72]。これを詳細に換言するならば,メディアは何らかの内容を伝達する手段であるというよりもむしろ,人間の結合と行動の尺度と形態を形成し,統制するものであるという意味合いが込められていると言える[中村]。

 また彼は,1978年に発表したエッセイの中で,「〈電話で話し〉たり,〈放送され〉たりしている時,その情報の発信者は送信されている。そうやって,身体から離れたユーザー自身が,電電気による情報のすべての受け手に届くのだ」と述べ[Levinson,2000:78],それが持つコミュニケーションの即時性とその受け手に与える影響のために,電子的メディアの中では人間はその身体を離れてコンテンツになる(また,創造する)と考えている。これは,彼の言うDiscarnate man(肉体なき人)いう概念に結びつくものであろう。電子メディア(特にインターネット上)では,身体性を帯びながらも身体を離れた(物質性を失った)情報発信者が流れているのである。

 しかしながら,ここで考えなければならないことがある。このことに関してはMcLuhanもLevinsonも深くは言及していないように思われるのだが,特にインターネット(サイバースペース)上では,ユーザーはコミュニケートしている相手をどのように認証しているのだろうか,という点がそれである。

 電子メディア上での相手の認識の方法は,直接合って相手を認識する場合の方法と異なっていると考えられる。また,同じ電子メディア上でも,電話,テレビ,インターネットなどの違いによってその方法は異なっているはずである。

 以下,この相異は何に起因しているのか,また,それはどのような感覚,また影響を我々に与えるのかについて述べる。

相異の要因

 相異を帰すべき要因はいくつか考えられるが,大きく影響しているように思われるのは次の2つである。

 まず挙げられるのは,(1)メディアに接するときに用いる感覚(五感)の違いである。例えば,実際に相手に直接会うときには,視覚,聴覚,触覚,場合によっては嗅覚を機能させ,そこから得られた情報を手がかりにして相手の認証を行う。しかし,電話ではその中でも聴覚のみが手がかりとなり,インターネットの場合は(単純なものでは)視覚のみが手がかりになるのである。なお,Levinsonはその感覚に関する分析の中で,「味覚と触覚は相手との直接的で物理的な接触が必要であるのに対し,視覚と聴覚は相手と距離を保ち,分離することが可能である。しかしながら,視覚は環境の一側面のみに注意を寄せてしまうという状況に陥りやすいが,聴覚はこれと異なって背景や一体感をあまり犠牲にしなくても済むのである[Levinson,前掲書:91-92]」といった内容のことを述べている【註1】

 次に挙げられるのは,(2)メディアによって伝達される情報の抽象度である。Levinsonはアルファベット【註2】 の持つ抽象度の高さに着目し,その抽象度の高さに依存するために,他のメディアで我々はアルファベットを改良したいという欲望に駆られないのだ,と述べているように[Levinson,前掲書:101-102],我々の情報に対する態度や感覚は,情報の帯びている抽象度に左右される。同じ音声(聴覚刺激)でも,生(相手の声帯の振動が直接空気を振動させて……)の声と,例えば合成音声ではその抽象度は異なる。生の声には,声色などの言葉で表現される,抽象度を減少させる要素が含まれているのである。

我々の感覚

 上に挙げた観点から判断すると,インターネット上の情報(電子メールも含む)というのは,基本的にはアルファベットで記述された視覚のみに訴えかける情報と言える。

 我々にとって,相手を認証するために最も基本的で最も古くから行われてきた方法は,直接会うことである。この場合に用いられる感覚の種類は多く,また,情報の抽象度も低い。しかし,電子メディアの高度化が進むにつれて,感覚の種類は少なくなり,情報はより抽象的なものになってゆく。感覚の種類が少なくなり,情報がより抽象的なものになるということは,相手を認証するためには想像力を発揮しなければならず,より大きな労力が必要となる。また,誤認の危険性も増える。

 我々がインターネットを使ってコミュニケーションする際に相手に対して抱きがちな猜疑の念や不信感【註3】 は,我々が最も慣れている相手の認証の方法(直接会う)に比べて,想像力の必要性や誤認の危険性が高いからであり,また,相手がインターネットのその特徴を認識して騙しているのではないか,という感情を抱くからである。

我々の変容

 しかし,考えてみると,我々は電話やテレビといった電子メディアを日常的に用いている。電話は直接会う方法に比べれば,想像力の必要性や誤認の危険性が高いにも関わらず,友人と電話で話す時などには,それほど疑うこともなく相手を認証する。これは,(1)直接会った時の感覚の経験一部を,電話を通じたコミュニケーションにも生かしており,また,(2)電話番号によって相手が特定されるというテクノロジーを信頼しているからこそできることである。また,(3)いわばコミュニケーション手段に対する「慣れ」とでもいうべきものもその信頼に加担している。

 このことを考えると,上の(1)と(2)の要素から,インターネットに関する私たちの態度も時間と共に変容すると考えるのが自然である。現在は,テクノロジーによって相手を特定する方法が日々研究,そして開発され,それをこわごわ信用しながら相手を認証している。しかし,時間が経過して技術的に信頼性の高いテクノロジーが実用化され,また,我々もコミュニケーション手段に慣れることによって,相手の認証に関する信頼が技術的保証に依拠していた当初の状況が,いつの間にかテクノロジーが我々の視野からは消えてゆき,その信頼性の根拠が人間に徐々に内部化されてゆくのである。そして,それが社会制度として明確化された時(裁判における人定質問や指紋のように),その信頼性は社会に浸透することになるのである。これが,メディアによる人間の結合と行動の尺度と形態の形成・統制と言えるのではないだろうか。

 しかし,現在のところ,人間への完全な内部化は不可能である。その例は,現在の社会を観察すればいくつも探し出せる。クレジットカードにおけるサインもそうである。また,最近では顔写真を貼ったものもあるが,これはより抽象度の低い次元への回帰の現れであると見ることもできよう。

今後の姿

 今後は,インターネット(コンピュータ)と人間との接点において,相手を我々が最も慣れている方法で認証できる,そして情報を伝達できるスタイルが必要であろう。それが,我々人間の中でわき起こる齟齬を軽減する方法である。

 この点で,このレポートの冒頭で紹介したIshiiの取り組みは興味深い(詳しくは彼のホームページを参照のこと)。

 最後に,インターネット(コンピュータ)と人間との接点のあり方について,Hiroshi Ishiiの議論に依拠しながら,私の考え方を述べてこのレポートを終わる。

 コンピュータのインターフェースは,数年前まではプロンプタ,現在では仮想デスクトップに代表されるGUI(Graphical User Interface)が中心であり,ほぼすべての情報を視覚でキャプチャしていた(いる)。これは,我々が現実世界で日常的に用いているメディアのあり方とは大きく異なるものであり,我々がコンピュータでコミュニケーションを行う際には,自ずから「結合と行動の尺度と形態」は日常以上に「統制」されているのである。(メディアの持つ作用を「形成」と述べるか「統制」と述べるかを截然と区別することはできないが,我々が最も「結合と行動の尺度と形態」の自由度が大きく,ストレスフルではない,と考える状況でのメディアの状況を述べるときには「形成」と解釈し,それ以外の場合においては「統制」と解釈するのが適当であろう。)言い換えれば,我々はコンピュータに「自らを適合させる形」をとることによって,はじめてコンピュータをメディアとして利用できているのである。その統制を何とか克服しようとして考えられたのがいわゆるVR(Virtual Reality)であるとも考えられるが,VRの欠点は,インターフェースは視覚以外の分野に拡張されたが,今度は人間が現実世界から遮断され,VRの世界に没入(jack-in)しなければならないということである。GUIでは,最も自由度の高い現実世界に浮かんでいる不自由な箱に,自らを適合させなければならないし,VRでは,最も自由度の高い現実世界,そして我々が生物的に存在している現実空間を捨象しなければならない。そこで,現代でコンピュータに求められているのは,より直覚的なインターフェースであり,また,現実世界と切り離されることなく,現実世界と重層をなすような,AR(Augmented Reality)なのである。我々が生きる現実世界の一部(の感覚)のみを取り出して拡張するメディアではなく,現実世界の上に重ね合わせることによって,「人間の結合と行動の尺度と形態」を維持,さらに拡張するメディアが,人間の新たな感覚を生み出すと言っては言い過ぎか。

脚註

【註1】ここで書かれている彼の主張には完全には同意しがたい。聴覚は背景や一体感をあまり犠牲にしなくて済むと彼は述べるが,カクテルパーティー効果に見られるように,聴覚も視覚と同じように環境の一側面のみに注意を寄せる場合もあるからである。【本文へ戻る】

【註2】アルファベットという語を,ここでは単に「文字」の意味合いで用いていると考えてもそう問題なかろう。但し,アルファベットは(今では)高度に純粋化された表音文字であり,漢字のように文字そのものがある意味合いを持ってしまう文字(表意文字)とは性質を異にしていることは留意しておく必要がある。【本文へ戻る】

【註3】例えば,インターネットを通じた通販に対する抵抗や,本名を明かさなくても良いチャットルームでは(中には,参加者がある社会的なマイノリティー集団に属するために結束感が生まれ,そうでない場合もあるが)深刻な話題や議論が出にくいことに見られる。【本文へ戻る】

参考文献

●Paul Levinson/服部桂訳,2000,『情報の千年紀へ デジタル・マクルーハン』,NTT出版
●中村秀之,書評(マーシャル・マクルーハン/栗原裕・河本仲聖訳『メディア論……人間の拡張の諸相』,みすず書房,1987),NTTインターコミュニケーションセンターホームページ(http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic017/books50/27.html
●石井裕+タンジブル・メディア・グループ/マサチューセッツ工科大学メディアラボ,2000,『タンジブル・ビット 情報の感触 情報の気配』,NTT出版
●石井裕氏講演(マサチューセッツ工科大学メディアラボ教授),2000/07/01-2000/07/02,NTTインターコミュニケーションセンター(東京都新宿区)
●Hiroshi Ishii(石井裕)氏ホームページ(http://www.media.mit.edu/~ishii/