REPORT20
2000年度冬学期(3年次)
比較文化
「生活の中の芸術」に関する小論――「メディア(特に文字)」を中心に
はじめに
私は授業の中ではミシェルフーコーの「自己のテクノロジー」に関する発表を行ったが,表象文化論が専門ではないこともあり,十分に理解できていない点もあった。本来ならば期末レポートで「自己のテクノロジー」に関して理解を深めるべきであろうが,このレポートでは,「生活の芸術」に関して自分の専門と絡めて考えるという立場に立って,私が関心を持っている「メディア(特に文字)」と「生活の芸術」を絡めてまとめてみたい。
生活の芸術
まず,「生活の芸術」の基本的な姿勢について,講義の中で行われた池上惇『生活の芸術化』の発表資料を参考にしたい。私はこの中でも特に「境界領域としての生活の芸術」と「社会思想としての生活の芸術」に着目する。前者は,ラスキン・モリスが考えたように唯美主義(完全なる価値の内在化)と貨幣経済(完全なる価値の外在化)の双方に対立するのものとして生活の芸術を捉えるものであり,後者は物質面のみに目を奪われることなく,その背景となる社会と調和ある秩序の発現を重視するものとして生活の芸術を捉える考え方である。
メディアをたどる
メディアをどのようなものとしてとらえるかには様々な考え方があるが,ここでは人々が情報を交換するためのツールとして考えることにする。メディアの歴史は大まかに以下のように整理することができる。
まず最初に出現したメディアは,約5万年前にクロマニヨン人が初めて身につけた「音声メディア」である。そして約3万年前になると情報を保存することのできる写実的な線刻画が用いられるようになり,それが紀元前6000年になって文様へと抽象化が進む。これがはっきりと記号と認識できる「文字メディア」となるのは,さらにその後,メソポタミア人が楔形文字を用いるようになる紀元前4000年前のことである。そしてこの文字メディアは,1455年,グーテンベルグによって活版印刷術を通じ「印刷メディア」として用いられるようになり,現在ではインターネットや各種媒体の中で「通信メディア」の基礎としての役割を果たしている。
この歴史の中で私が着目したいのは,文字メディアである。現在の日本では絵画と文字は共にコミュニケーション・ツールの一種としては認識されているものの,どちらかというと前者は「芸術」,後者は「技術」として認識される傾向がある。特に文字メディアが通信メディアとして用いられるようになると,文字を技術と見る傾向はより高まってきた。もっと言えば,メディアという語の持つ意味合いが狭まってきた側面も多く,メディアを技術と結びつけて語る言説も耳にするようになってきた。
芸術と技術の分離
上に述べたようにメディアの歴史をたどってみると,そもそもは「絵画」と「文字」に根本的な差異はない。しかし,いつからか絵画と文字は別個のカテゴリーに属するものとして考えられるようになったのである。その分離がいつ生じたかは明らかではないが,きっかけは文字を用いることによって,社会システムが「近代化」したことであろう。
マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルグの銀河系』の中で,文字社会が生み出した作用として,非部族化,個の出現,絵画化による諸観念の把握,五感どうしの相互作用の絡み合いの網の中から視覚を取り出して分離する過程による人間を聖なる時空から世俗的時空(プラグマティックな文明人の非部族化した時空)への導きなどを挙げている。ただし,これらはいわゆる「絵画」と「文字」とを分離して行った議論ではないため,このレポートに完全に適合するわけではないが,印刷物は人間が持つ諸機能を性的な断面で切り離す技術性や分離と区分けをこととする専門主義的見地を生み出した,だとか,本の製造によって書き手と読み手・生産者と消費者・統治者と被統治者というような人間の機能が明確に分けられてしまう社会へと移行した,また,印刷技術(特に新聞)が中央集権的な国民の組織化を生み出した印刷技術によって民族語が視覚化され統合されナショナリズムが生まれた,などの印刷についての彼の記述を読むと(記述から推測するに,印刷術は文字の印刷──活版活字印刷──を主な対象にしているように思われる),文字の使用によって社会がより「近代的」な方向へ進化し,また,逆にそういった方向への進化がより一層の文字の利用を要請したであろう側面が実例を挙げて説明されている。
彼は,聴覚と視覚の違いに着眼していたため,文字社会の特徴として記述している内容は,先述したように「文字」と「絵画」を分離した議論ではない。しかし,この議論に「生活の芸術」という概念を持ち込むことによって両者を分離して考えることができる。
もちろん絵画も情報をストレージするという作用を持っているため,社会を近代的な方向に導く一段階となったことは確かである。しかし,絵画で表すことができるよりも抽象的な概念や目に見えない非視覚的現象を記述する「文字」を持つことによって,経済や政治,社会やフィロソフィーなどに関してはより複雑なシステムや体系を築き上げた。まさに完全なる価値の外在化と言える。その過程の中で,(広義の)社会システムからは一種不要になり,追い出された形になった絵画が,芸術という新たな意味・意義を身にまとうことによって,社会システムの中で延命することになったのではないだろうか。
文字の芸術
しかし,完全に分離してしまったように記述してきた「絵画」と「文字」であるが,その中にもまだ分離していないもの(すなわち「生活の芸術」である)と考えることのできるものもある。それは文字に関する芸術である。東洋で言えば書道がこれにあたり,西洋で言えばカリグラフィにあたるだろうか。
特に東洋の書道を例にとると,当然,文字としての意義の根幹に関わるので,文字は読めるものでなければならない。また肉筆は,その文字を見た人に対し,書き手に関する強い印象を与える。自己のパーソナリティを表出する,一つの「技術」として書道を捉えることができる。また,書道は単に文字情報を伝えるだけではなく,その筆跡によって,文字の背後にある書き手の感情や意識を伝えることができ,文字コミュニケーションにおいては極めて優れたメディアの一つと言うことができる。これが「生活」「技術」としての面である。
その一方で,書く側にも受け取る側にも美的感覚や自己表現への熱意(理解),高度な知的感覚も要求される。また,「時」を記録できるという点で,四次元の味わいをもった芸術,換言すれば鑑賞者に時を実感させるものであると言える。当然,美的要請も受ける。また,精神性が付与される場合も多い。
書道という名のついた分野に限らず,これに似た考え方は社会の中にまだ存在している。
デジタル化の波の中で
とはいえ,高度情報化が進んだ現在では,直筆で文字を書く機会は減り,文字を「打つ」ことが多くなってきていることも事実である。しかし,書道に見られるような考え方はなくなってはいない。フォント(本来は異なる概念だが,書体と言われることも多い)に対する姿勢である。
フォント使用者としては,文章を印刷・表示させるときに,どのフォントを使えば自分の考えや感じ方を相手によく伝えることができるかということを考えたり,フォント作成者としては,フォントそのものの美しさや,それを組み合わせて文章にしたときに与える印象を考えてデザインする。当然,文字を実用的メディアと考えてである。最近では,自分の内面をできるだけ欠けない形で文字(フォント)で表現したいという気持ちから,自分でフォントを作成する者も登場している。
おわりに
「文字のデザインはその時代とそれを生んだ都市を映し出す」とは,日本でのデザイナーズ・フォントの先駆けとも言える「デジタローグ・フォントパビリオンシリーズ」の巻頭言である。見方によっては少々「芸術」寄りに見えることもあるが,まさに,完全なる価値の内在化と完全なる価値の外在化の双方に対立し,後者は物質面のみに目を奪われることなく,その背景となる社会と調和ある秩序の発現を重視するという,このレポートの最初で述べた「生活の芸術」の概念と適合している。
生活の芸術は現代の社会にも存在している。今回は,私が関心を持っている文字に関して少々時間軸の広い整理をしてみたが,工業デザインなど,他にも生活の芸術の面から切り取ってゆける分野は多いように思う。
参考
●株式会社デジタローグホームページ(http://www.digitalogue.co.jp)
●電子商取引研究プロジェクトホームページ(http://www.ecrp.org)
●マーシャル・マクルーハン/森常治・訳,1986,『グーテンベルグの銀河系 活字人間の形成』,みすず書房
●本とコンピュータ編集室,2000,『別冊本とコンピュータ3 コリアンドリーム!』,トランスアート
●石井裕+タンジブル・メディア・グループ/マサチューセッツ工科大学メディアラボ,2000,『タンジブル・ビット 情報の感触 情報の気配』,NTT出版