REPORT24
2003年度夏学期(修士1年次)
メディア文化研究の方法論的基礎
私がゼミを通じて学んだこと
批判精神と新たな視点
家庭の事情で途中からのゼミへの参加となったが,夏学期のゼミを通じて学んだことは,研究者に必要とされる《批判精神》であったように思われる。《批判精神》から生み出される多様な視点や含意は,自分自身の研究を進めてゆく上での大きな参考になり,また,新たな視点に気付かせてくれるのである。特に私の場合,学部時代までは文献の内容を鵜呑みにしてきた傾向があったのだが,今回のゼミを通じ,文献を批判的な目で読むことの重要性とそこから導出されるヒントを学んだ。
まず,批判的な目で文献を読むことによって,文献で論じられている内容に対して《本当にそうなのか》をいう疑義を提示することにより,文献で扱われている主題に対して深い関心を抱くことができ,その関心が新たな研究につながってゆくのである。また,文献に書かれている内容のみならず,論文から抜け落ちていることに着目すれば,その部分は無限の可能性を秘めていると言うことができる。中間考察で言えばまさに《捨象された部分の重要性》であるのだが,これから研究をする立場に立ってみれば,議論を美しく進めるために捨象されてしまった部分に目を向けることによって,その研究を深化させることはもちろんのこと,抜け落ちている部分から独自の視点を発見し,また新たな研究課題を設定することができるのである。詳しい論点は,ゼミ全体を通じて提起された問題点(学問的課題)に関してのレポートとしてまとめたので省略するが,文献の執筆者が敢えて描写しなかった部分にこそ,いわゆる《宝の山》が眠っているように思えてならないのである。
第三者の審級とオーディエンスの視点
これも中間考察で提起された問題と重複するが,文献の中で一般大衆がどのように扱われているかも重要な視点であり,自分の研究のヒントを探し出すことが可能である。社会科学分野での研究を進めてゆく上で不可欠なのは,社会的な現象を俯瞰的に,そしてマクロに見る《第三者の審級》であることは言うまでもない。しかしながら,この《第三者の審級》の視点からのみ書かれた文献には,やはり何かが不足しているという感情を抱いてしまう。特に,私が研究しようとしているインターネット上のサイバー文化やサイバー空間での人間行動などを考える上では,《第三者の審級》の他に,言ってみれば《主体の視線》が必要である。それは,《行動主体》と《オーディエンス》という構図で截然と整理できる性質の問題ではなく,行動主体とオーディエンスが頻繁に入れ替わる,極言すれば個々人が双方の役割を果たしているような社会現象を捉える上では,《第三者の審級》のみでは不足である。かつてのマスメディアのように,行動主体とオーディエンスが截然と分かれていた時代は終わろうとしており,逆に個々人が情報発信者として主体的に行動する時代に突入しようとしている現在においては,前述した《第三者の審級》と《主体の視線》の双方が必要であるように思われる。
資料の活用
また,ゼミの中で注目すべきことは,やや失敗している文献も散見されたが,文献の中で資料・史料が有効的に,換言すれば論理を後押しする形で非常に上手に用いられている点である。当然,統計数値や各種資料の取捨選択の場面において,文献の筆者の主観性や,結論を援護するといった視点が入ってくるのだが,これを含めて筆者の能力と考えることができるであろう。意味のない,また,とらえどころのない曖昧な資料・資料を用いても論文はその信憑性を高めることができない。論文を執筆する上で,いわゆる《都合のよい情報》のみを利用・引用することは,ある程度は止むを得ないことである。社会に存在する様々な統計資料や資料・史料を全くの偏見なく眺めてみても,何の結論も何の糸口も発見することはできない。自らが立脚しているポイントを考えた上で,統計資料や資料・史料を利用・引用して論文を執筆することは研究者として,重要なスキルではないかと思われた。当然,その資料・史料の選択には多くの反論がなされるであろう。しかしながら,ある社会現象を筋道立てて説明するためには,筆者の主観性,そして独自的な思考を排除することは不可能である。虚心に資料・史料を眺めることなど,意味のない行為であると私は考える。逆説的に言えば,人文社会系の論文は批判対象たりうるものでなければならないのではないだろうか。批判が全くできない論文は,筆者の主観性が全く含まれていない,《論文》と呼ぶよりはむしろ《統計書・白書》に近いものであり,何らかの主義・主張が含まれていれば,必ずや批判を受けることになるのである。物理現象とは異なり,多様な視点から分析が可能な《社会》という代物を扱う上で,資料・史料を恣意的に取捨選択し,その結果として批判や論じられていない点が提起されるのは至極当然のことではないだろうか。
技術的な側面
これはゼミの趣旨とは合致しないかもしれないが,夏学期のゼミは《論文をどのように書けばよいのか》というテーマにまで肉薄したものであったように思われる。個々の文献に対する批判点は,私がまとめたように数点に絞られてしまい,かつ,それは社会科学系の論文が宿命的に背負わされている問題であり,議論に終わりはない。むしろ,その終わりなき問題を踏まえた上で,いかにして説得力のある論文を書き上げていけるのか,といういささか技術的なスキルに関しても学ぶことができたのではないかと個人的には思っている。また,文献を反面教師的に読み,各種資料・史料を用いる場合の注意点に関しても,ゼミの中での討論を通じて知ることができた。韓国の研究をしていて,つねづね感じることは,韓国のメディアに関する論文の執筆者の大部分が韓国語をほとんど知らないという問題である。専門の通訳士を雇って資料・史料を渉猟したり,英語に翻訳された文献を読んでいる場合が多いのだが,私にとってみれば,それらの行為は誤読の危険を大いに孕んでおり,そのような過程を通じて書かれた論文には疑義を提示せざるを得ない。実際に自らが体験(追体験)した内容に関しては疑義を唱えることはできないが,二次資料や翻訳された文献を読む時には,あらかじめバイアスを考慮し,そのことを踏まえた上で論文を作成しいく必要があるように思われる。
結びに代えて
夏学期のゼミを通じて学んだことを一言で言うならば《論文執筆の怖さ》となるだろうか。今後,修士論文を執筆するにあたり,吉見先生の論文は,反面教師的に私たちにしてはならないことを教えてくれたり,やや技術論的ではあるものの,論文を執筆する上での各種資料・史料の用い方を教えてくれたように思う。また,現代の社会科学が抱えている問題について,回を重ねるごとにその内容が洗練されてゆき,ある程度明確な形で眼前に提示されたことも大きな収穫だったと言えるだろう。いずれにせよ,社会を見る視点は多種多様であり,各個人の視点に応じて様々な批判が可能であり,また,宿命的に批判可能性を残さざるを得ないということを,夏学期のゼミで学んだと思う。半年間,慌ただしいゼミではあったが,(私の専門分野とあまり関係はないながらも)様々な視点から社会を見つめることの難しさを提示できた,意義のあるゼミだったと思っている。最後に半年間,お忙しい中でゼミを積極的に指導してくださった○○先生に感謝の言葉を述べ,結びに代えたい。